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第一部 9-1

 笑い声がした。楽しげで穏やかで、優しさに溢れた笑いが遠くの方から聞こえて来る。 「何がおかしい?」  葵は近くに聡がいると思い、声にもならない呟きを唇に響かせた。 「こっちは最悪な気分なのに……」  そこで気付いた。聡の声はもう少し高く、溌剌として明るいはずだ。低く抑えたように笑ったりもしない。ゆったりとして、物柔らかな雰囲気を醸したりは絶対にしない。 「あいつか……」  葵は笑い声に刺激された意識を無視することも出来ずに、閉じていた目をゆっくりと開いた。省吾はベランダに通じる窓の枠にもたれて、電話に出ている。誰と話しているのかはわからないが、楽しそうに喋っている。その省吾に背中を向ける形でベッドに横たわっているのは何故なのか、眠気が晴れるのと同じ速さで記憶が蘇って来た。 「何がおかしい、こっちは最悪な気分なのに……」  聡と思って言った同じ言葉が、思わず口をついて出た。省吾には苛立たしげな口調になるが、聡にはほんの少しだが、馬鹿にしたような口振りになっていた。それも聡なら簡単に黙らせられるからだ。両手で顔を挟んでキスをすれば、あっという間に真っ赤になって、聡は笑うどころではなくなる。そうしてからかうだけでも、面白くてたまらなかった。  聡の可愛く拗ねた顔が思い浮かび、葵はふっと短く笑った。しかし、実際は少しも笑ってはいなかった。捨てたものに執着しても意味がない。惨めなだけだと、意志の力で笑いを止めていた。 「わかっているよ」  その時、電話の相手に答える省吾の声がはっきりと聞こえた。葵はすっと目を閉じ、寝たふりをする。聡を思ったことで、今日はもうこれ以上、省吾と話す気にはなれない。放っておいて欲しいと言ったところで、無理な相談だとわかるからこそ、葵は目を閉じた。背中を向けているからと安心してはならない。省吾を見くびらない方がいい。  葵の願いは(かな)えられ、電話を終えた省吾が部屋を出ようと階段へと歩いて行く。その少し前、省吾は葵に向かって何か言っていたが、何を言ったのかまでは聞き取れなかった。気にはなったが、起き上がって聞く訳には行かない。自らの手で寝たふりを暴くこと程、間抜けなことはない。そうまでして知りたいとも思わなかった。葵はじっとしたまま、省吾の気配が完全に消えるのを待ってから、寝起きの重い体を起こした。  田舎ではすこぶる寝起きも良かったというのに、この町に来てからはずっとこの調子だった。以前はぱっと目が覚めて、すぐに活発に動き出せていたのが、両親の死後、尚嗣のマンションで暮らすようになったあとは、寝起きどころか寝付きまで悪くなっていた。 「冴えねぇよなぁ」  葵は小さく呟いた。寝不足が(たた)ったとはいえ、今までは幾らでも自制が利かせられたのにと思うと、悔しさばかりが(つの)った。  省吾の手が特別だという気はしていない。見目好(みめよ)く整えられた男らしい手だとは思うが、格別な何かがあるという気もしていない。 「それとも……あるってのか?」  並外れたテクニックに、誰しも抗えはしないものだ。触れて握られただけで屈したことにも、一転して爆睡した嘆かわしい現実にも、言い訳が立つ。それでも―――。 「あいつには楽しめないなんて言ったのに……情けねぇぞ」  身のうちに起きた快感の渦に、愉悦の声を漏らしたのを覚えている。省吾を相手に、欲しがるように自然と動いた揺らめきが今も体に残っている。甘美の飛沫(ひまつ)が迸ったこともだ。それに確かにあの場所が、風邪をひいた時と同じ臍の下辺りが、熱を持って激しく痛んだのも覚えている。その直後に、意識を失い、そのまま眠ってしまった。  それにしても、あの熱と痛みには、どういった意味があるのだろう。  子供の頃から、意識する前にすべきことやその方法を体が理解しているという感覚は持っていた。空気の振動と匂いによって、周囲の様子がわかるという奇妙な能力もある。葵が誰にも言わずにいられたのは、他とは何かが違うという自分の存在を、田舎では余り気にすることがなかったからだ。周りがおおらかだったせいかもしれないが、葵自身のさっぱりした性格もあったからだろう。  中学に上がってからの一時期だけが違っていた。ひどい風邪をひいたあとの半年程は、意識しないところで何かが動き回っているように感じて、イライラが過ぎて暴力に走っていた。聡にケラケラと笑われたことで、気持ちが軽くなり、体の中の何かとも折り合いを付けられた。それ以来、あの何かが勝手に動き回る感覚を忘れていたのに、省吾がそれを喜びに変えて呼び覚ました。  風邪をひいた時、母親は何かを見たのだろうか。〝なんてこと……〟という震える声も、熱が見せた幻だと思っていたが、違うのだろうか。臍の下辺りに何があるというのだろう。それを省吾も見たのだろうか。 「あいつ、俺が篠原だと確かめるとかなんとか、ほざいていたよな……?」  省吾の思いもわからないが、葵も省吾と何をどうしたいのかがわからない。知り合ってたった半日で、その答えが出せるはずもないが、省吾とは長い付き合いになることだけは確かなようだ。 「俺に気があるみたいだしな、あの感じじゃ、まずはお友達からなんて、悠長なことは言わねぇさ」  葵はニヤッとし、思い出したように視線を下げ、臍の下辺りを眺めた。省吾に乱されたはずが、少しも乱れていない。何もなかったかのようにきちんとしているのを見て、寝起きの気怠さも吹き飛んだ。 「あの野郎……」  いっそのこと、やり捨てたように放っておいて欲しかった。その方が気も楽だ。後始末をされたことで、省吾の感触が刻まれたようで気分が悪い。あの瞬間、葵の体が省吾を受け入れたがっていたと、省吾に言い残されような気分にさせられる。省吾は次があると平気で(ほの)めかせるような自惚れが過ぎる男だということだ。 「あんたは俺の好みじゃねぇぞ」  葵は腹立たしげに呟き、両足を床に下ろしてベッドに腰掛けた。髪をかきあげながら顔を上げると、目の前に洗面所が見え、生理現象に動かされてトイレに駆け込む。用を足し、トイレを出て手を洗い、ほっと一息ついたところで、洗面所をぐるりと見回した。

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