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第一部 9-2

 否応なしに目に付いたのは、ガラスの壁で仕切られたシャワー室だった。二人で使ったとしても余りある広さで、清潔で洒落た壁の簡易な作りが刹那的な快楽を演出している。洗面台に備え付けられた棚を覗くと、タオルはもちろんのこと、見たことのないものや、何をするにも筒抜けの田舎では恥ずかしくて手に取れないものまで、豊富に揃っていた。 「……なんて部屋だよ」  マキノの住まいと思った二階は、住居というには程遠い目的の為に(しつら)えた部屋だった。そこに置かれたベッドで眠れるような自分の図太さには、呆れるばかりだった。省吾が電話で笑っていたのも、そのことなのかもしれない。 「クソがっ」  思い違いだとしても関係なかった。あの楽しげな様子に、腹の虫が治まらないというだけだった。  今回は省吾にマウントを取られたが、次があると思っているのなら、覚悟して来いということだ。省吾によって呼び覚まされた感覚に思い悩まされることも、どうしてだが省吾には普段の力が発揮出来ないことも、考えるのは後回しにする。省吾に遣られたままでは気も済まない。次は葵が省吾を押し倒す番だ。必ずそうしてやると、葵は意気込んだ。 「ヒィーヒィー言わせてやっぞ」  想像するのは勝手だ。〝だろう?〟と自分に向かってニヤリとした。気分も高揚し、体まで軽くなったが、ふと何かを忘れているような気もして、うぅんと小さく唸った。そこで、はたと気付いた。 「俺のカバン……」  省吾のスマホがロッカーのキーになっているのだから、省吾が先に帰ってしまったからには、どうにもならない。今更追い掛けることも出来ない。連絡先も知らされていないのだから、明日の朝にでも捕まえるしかないのだろう。 「あいつ、絶対にわかっててしたぞ」  葵は憤然としながらも、スクールバッグの中に腐るものが入っていないことに、ほっとする。  田舎の中学には給食があり、元から葵には弁当を持って行く習慣はなかった。『鳳盟学園』にも中・高等部の全生徒が同時に利用出来る食堂がある。そこは同じだと思ったが、その規模たるや、田舎とは桁違いだった。  小柄で気のいいクラス委員長から、久保翔汰(くぼしょうた)と名乗っていた委員長から、給食費が学費に含まれているから利用するようにと、編入初日に聞かされたことだった。翔汰はニコニコと気持ちのいい笑顔で、こう話していた。 〝日替わりでメニューが二種類用意されているんだよ〟  翔汰は葵より頭半分背の低い身長をくいっと伸ばし、それの何が嬉しいのか葵にはわからなかったが、気持ちのいい笑顔をさらに綻ばせて話を継いでいた。 〝人気のメニューは高等部の生徒に取られてしまうけれど、残りのメニューだって、とても美味しいから、食堂に駆け込まなくても大丈夫なんだ〟 〝食えりゃ、なんでもいいさ〟  葵の気のない返事にしゅんとし、翔汰の小柄な体がより縮んだように思えた。そこまで(へこ)むことかと思ったが、取り敢えずは翔汰の気持ちを盛り上げようと、葵は自分の何が悪いのかもわからないままに謝っていた。 〝ああっと、すまない。あんたの……委員長の言う通りにするさ〟  その言葉で翔汰はすぐに元気を取り戻し、再びニコニコと気持ちのいい笑顔を見せていた。しかし、途中から葵の顔にやたらと絡んで来る生徒が現れたことで、学園の案内も最後まで出来ないでいた。  美人だのなんだのと、葵を女扱いして喜んでいただけだが、翔汰はその生徒が現れ出たことに、哀れな程に動揺していた。その気になれば全てを感覚的に理解する葵には、案内というもの自体が無用だった。翔汰にその能力について何も知らせていないが、案内は必要ないとそれとなく態度では示していた。それでも翔汰は血の気の引いた青白い顔で、休み時間の度に、果敢に話し掛けて来た。それを嘲笑(あざわら)うように、やたらと顔に絡んで来る生徒が翔汰の邪魔をしていた。その生徒を前にすると、翔汰はおろおろとし、その狼狽ぶりは痛々しいくらいだった。  葵には翔汰が取り乱す理由がわからなかった。下手(へた)に騒げば、翔汰に迷惑が掛かりそうなのはわかっていた。葵はやたらと顔に絡んで来る生徒を避けて、独りでいれば済むことだと思った。食堂に行けずじまいなのは、そのせいだった。初日は昼を抜くことになったが、昨日は学園近くのコンビニでパンとオレンジジュースを買って、校庭の隅に見付けたベンチに座り、一人でのんびりと食べていた。今日もそうするつもりでいたが、省吾に誘われて、何もかもがすっかり狂ってしまった。 「そういえば、委員長……」  やたらと顔に絡んで来る生徒が現れる前、高等部に凄い先輩がいると話していたのを思い出す。翔汰は瞳をきらきらと輝かせて、その凄い先輩に食堂で会えると話していた。中には反発する生徒もいるが、殆どの生徒の憧れだと続けた翔汰の口調から、葵の気のない返事に凹んだ理由もわかるというものだ。  翔汰によると、その生徒のグループは学園内でも一際(ひときわ)華やかで、彼らだけで固まっているせいで、誰も近寄れないということだった。彼らが他校の仲間と(たむろ)する遊び場に潜り込み、うまく気に入られたとしても、ほんの一時のことで、今まで誰一人として彼らのグループに迎えられた者はいないという。 〝意味、わかんねぇんだけど〟  あの時、葵は翔汰の熱のこもった話に付いて行けずに、聞き返していた。

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