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第一部 9-3
〝その先輩ってのは、あれか?遊び人のクソ野郎ってのか?〟
〝ちっ、違うよ。カッコイイだけじゃなくて、品もあって、成績も優秀で、スポーツも得意で、凄く真面目で、本当に優しい先輩だよ。下級生に意地悪なんかしたことがないし、先生や生徒会とも仲良くしている。だけど、グループの人達がちょっと怖くて、自分達だけの世界を作っちゃっててね、先輩に誰も近付かせないんだ〟
〝つまり、何か?こんな金ぴかな学校にも、ゴロツキどもがいるってのか?〟
〝ゴロツキ?〟
翔汰が余りに可愛らしい顔できょとんとしたせいで、葵の方が恥ずかしくなった。田舎育ちが原因なのか、葵は自分のことがオヤジ臭く思えてならなかった。聡とは違う翔汰の可愛らしさに戸惑わされもしたが、どうにか答えられていた。
〝ガラの悪い連中ってことさ。そのキモイくらいに凄い先輩ってのが、そいつらの頭 なんだろ?〟
翔汰は驚きにぽかんとし、そのあとで首を何度も横に振った。その仕草が、オヤジ臭い葵の目には、より一層可愛らしいものに映っていた。
〝そんなんじゃない。あの人達は雰囲気が怖いってだけで、本当に怖い人達っていうんじゃないよ〟
〝だけど、ちょっと遊んでは捨ててんだろ?〟
〝だから、違うんだって、相手の方が付き合って欲しいってお願いしているだけだよ。だけど、誰も先輩を本気にさせられないってだけで……〟
そこで翔汰が葵をちらりと見上げ、照れたように頬を染めたせいで、その先輩についての話は尻切れに終わっている。葵自身、華やかだという先輩グループに興味はなかった。すっかり忘れていたことだが、今はもう、翔汰が憧れる凄い先輩の顔も名前もわかっている。
「あいつは一人で俺の前に現れたしな……」
翔汰の話にあったように、怖そうな仲間とつるんでくれていたなら、遊び人のクソ野郎とすぐに気付けただろう。省吾が信用ならないクソ野郎なのは変わりないが、突然ホームで声を掛けて来た男と、こうして半日過ごすことはなかったはずだ。
「あいつも一人だったから、俺に思わせぶりなことが言えたんだろ」
こちらも誘いに乗りやすかったと、葵は渋々ながらも認め、部屋を出た。
古い木造住宅の割にしっかりした階段を、それでも一歩一歩ゆっくりと慎重に下りて行く。二階のあの部屋が知られているのなら、店の方の客と顔を合わせるのは居心地が悪いものだ。そう思って壁に囲まれた狭苦しい階段を、空気の振動と匂いを探るようにして下りて行くが、店の雰囲気は閑散とし、マキノしか感じ取れない。葵は安心して最後の一段を下り、店に姿を見せた。
マキノは葵が座っていたカウンター席のその椅子に、体を斜めにして軽く腰掛けていた。形良く伸びた長い足を組み、カウンターに片肘をついて、ほっそりした指のあいだにシガレットを挟んで、煙の向こうから葵に笑い掛けている。
「昼の営業はもう終わったのよ。ここで働いている子達の為に作っているだけだから、もう閉めちゃったの」
「ああっと……そうなんだ」
葵は昼時の騒ぎも知らずに寝ていたとわかり、気まずそうに答えた。
「そうだ」
ふと思い出して続けた。
「上のトイレ、借りたから」
マキノは葵が最初にトイレのことを口にするとは思わなかったようだ。目をぱちくりさせたあと、気持ちを落ち着けるように、直前に吸った一服を吐き出しながらシガレットを灰皿に押し付けている。
「省吾は少し前に帰ったの」
葵がふっと笑っただけで何も言わずにいると、マキノは〝しょうがないわね〟と呟き、椅子から立ち上がり、調理場へと入った。グラスにオレンジジュースを注ぎ入れ、それをカウンターに置き、調理場にある椅子を引き出して座る。
「どうぞ。これが好きそうだって、省吾に言われたのよ」
葵はカウンターに置かれたグラスを眺め、それが意味することを理解した。諦めたようにカウンター席のその場所に座って、グラスを手に取った。良く冷えたオレンジジュースを素直に飲む。美味しいと感じることが、物悲しく思えた。
田舎では、それが好きで飲んでいた。聡がくすねて来るのがオレンジジュースなのも、葵の好みに合わせていたからだった。それを省吾は知らないはずだ。醜悪なモニュメントがある公園の自動販売機で、さり気なく選んだのを見ていただけだ。ベンチで並んでジュースを飲んでいた時も、聡についてしつこく聞かれはしたが、葵の好みについては何も聞かれていない。それなのに省吾は気付いていた。
葵は苛立ちを感じたが、省吾の存在がどうしようもなく大きくなり始めているのを否定出来ないでいた。
「あいつ、なんか言ってた?」
「省吾のこと?」
どう見ても年上の省吾を対等に扱う葵を、マキノが不思議そうな眼差しで見詰めている。理由を聞きたそうにしていたが、言葉にして尋ねようとはしない。それが葵には引っ掛かった。マキノの期待するような笑顔にも問い返さずに黙っていると、マキノは残念そうな溜め息を吐き、自分の方から話を繋げていた。
「あの子、帰り際 に、あなたに伝えてくれって言っていたわ。明日の朝、待っているって。それでわかるって言われたけれど、どう?ちゃんと理解している?」
葵は静かに頷いた。スクールバッグを預けたロッカーで、ほぼ強制的に、省吾と待ち合わせたということだ。そのことについても、葵が何も言わずに頷いただけなのを、マキノは残念がった。
「あーあ、あなた、見た目は亜樹にそっくりだけれど、中身は全然ね」
父親の名前が会話の切っ掛けになると、わかった上で言ったのだろう。事実、葵は顔を上げ、マキノをきつい眼差しで見返した。
「やっぱり、私達のことを怒っているのね、二階に引っ張って行くあの子を止めなかったこと……」
「俺は……」
ここが余りに怪しい店である為に、葵は気を許していいものかどうか迷っているだけだった。父親の名前を出されたことにむっとしたのは確かだが、自分の態度のせいで、マキノに誤解させたことには後ろめたさを感じた。
「……あんたのこと、怒ってなんかいない」
「良かった。私達のこと、好きになって欲しいもの」
マキノが甘く蕩けるような口調で、私とは言わず、私達と言った。そういった道理に合わない話し方が、葵には理解し難い。腹は立たないが、警戒するのは仕方のないことだった。
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