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第一部 9-4 (終)
「あんたは変だ。その理由を聞いたら答えてくれるのか?」
「それは無理ね」
葵が不満げに顔を顰めたのとは大きく違い、マキノは浮き浮きとし、今にも踊り出しそうな勢いで即答していた。
「そうそう、あなたの両親のこと、省吾に止められてしまったでしょう?あと少し続きがあるのだけれど、聞きたい?」
「それはいいのか?あいつに止められたのに?」
「ふふっ、省吾はね、あなたが聞きたいと言えば、好きにしていいと言ってくれたわ」
〝俺が傷付けば、おまえも傷付くと言うのか?〟
マキノの甘ったるい声音に重なるように、低く魅力的な響きで省吾の言葉が葵の耳に再生される。あの時は深く考えて言ったとは思えないが、省吾も自分の言葉に不変の正しさを見付けたのかもしれない。
省吾の思いは、葵に伝わる。それが複雑な二人の関係を示している。省吾との付き合いはそうしたものなのだろう。省吾はこの街に暮らす者達のことを、シンクロすると言い、共鳴しながら交信していると話していたが、胡散臭い表現ではあっても、省吾の言葉と似ていなくもない。今のところは一方向 だが、それも傷付いている度合いの違いだろう。
葵は省吾なりの気遣いを受け入れ、話を聞きたいとマキノに言った。マキノはふふっと嬉しそうに笑って頷いていた。
「亜樹があの男のところへ行って、一年くらいした頃かしら、突然、訪ねて来たの。あなたの母親……香月のご令嬢と一緒にね。驚いたわよ。二人でこの町を出て行くなんて言われたし。だから、県外の駅まで、車でそっと送って欲しいって頼まれたの。この町の駅からだと、誰に見られるか、わからないものね。あの男の傲慢さからしたら、亜樹に逃げられるなんて許せないだろうし、用心した方がいいに決まっているもの」
マキノが葵の顔をとくと眺め、その比類ない美貌に昔を思ったのか、うっとりした口調で続けて行く。
「でもね、行く当てもなしに逃げたりしたら、折角の決意もすぐに挫けちゃうじゃない?だから、大丈夫なのか聞いたの。そうしたら、あなたの母親がこう答えたのよ、どこへ行けばいいかは、体が教えてくれるからってね。その言葉で私達は二人を送ることにしたの」
体が教えてくれると言った母親の思いはわからないが、葵にはその言葉の意味が感覚として理解出来た。秘密にされたことの方が解 せないでいる。気付いた時には自己の一部になっていた能力を、葵の方から母親に伝えていたならどうなっていたのだろう。
〝なんてこと……〟
風邪をひいた時に聞いた母親の震える声は、熱が見せた幻ではなかったということだ。臍の下辺りのあの熱と痛みも、母親は知っていた。
葵は答えを出せないことに苛立ち、身のうちに微かな怒りが湧き起こるのを感じた。葵の美しさにも恐ろしげな影が差し、薄茶色の瞳も金色へと変わって行く。すぐに母親を思い、気持ちを宥めた。その時には影のない輝くばかりの美貌へと戻り、瞳の色も元の虹彩に直っていたが、そうした変化がマキノを楽しませていることには、気付けないでいる。
「その頃には私達も、あの男から解放されていたのよ。だから、平気だった。あの男は知らないことよ。私達が逃がしたなんて、露程も思っていない」
〝あの男〟に一泡吹かせてやれたとしても、〝あの男〟に逆らえなかったのと同じで、今は省吾に従属している。表現は優しげだが、マキノは〝嫌な子にもなれる〟と話していた。省吾の場合は家族だから許せるとも言っていたが、そのことをここで蒸し返しても無駄だろう。葵は頷くだけにして話の先を促した。
「二人がどうやって知り合ったかは、話してくれなかったのよ。私達も聞かなかったしね。だけど、二人がうまく行くとはどうしても思えなかった。逃げ帰って来るに決まっているってね。だから、その時にもう一度、力になるからと約束したの。でも、一向に連絡がなかったの。それで、どこかで幸せに暮らしていると思うことにしたのよ」
マキノが葵を見詰め、その思いに間違いがなかったのを知り、嬉しそうに笑った。
「私達の話はこれで終わり」
「両親が世話になったんだな……二人はあんたに感謝した?」
「ええ、別れる時に何度もね」
「そっか、だけど、俺からも言わせてもらうよ、ありがとうってさ」
葵は椅子から立ち上がり、店を出ようとドアに向かった。ドアを開ける前にふと立ち止まり、自分でもおかしな行動だとは思ったが、恥ずかしげに俯いて、静かに言った。
「あいつ抜きで、ここに食べに来てもいいかな?あんたのシチュー……うまいから」
「いつでもどうぞ。私達の街はあなたを歓迎するわ。だってね、省吾が認めているもの」
「ちぇっ、やっぱりあいつ抜きは無理か?」
「ふふっ、一人でも構わなくてよ」
葵は苦笑しながらドアを開け、外に出た。省吾に連れて来られた道を、駅に向かってのんびりと歩いて行く。不思議なもので、人気 のなかった通りが、どこからともなく現れた者達で賑わい始めている。
彼らは次々と葵に挨拶をして行き、葵がそれに答えると、その都度、相手から弾けるような笑顔を返された。葵はこの街は本当に奇妙で怪しいと思うが、警戒心は薄れて行くように感じた。醜悪なモニュメントを過ぎて、洒落たオープンカフェへと戻った時には、笑い出しそうになっていた。
今朝、尚嗣のマンションを出た時には、葵にはこの町で遊べるような場所も知り合いもなかった。たった半日で、そうした場所も知り合いも出来ている。
「胡散臭いのも、イカしているかもな」
楽しげに呟く葵の笑顔は燦爛 とし、周囲の視線も自然と集中するが、極々普通に歩く葵の何気ない様子に、いつしか誰も気に留めなくなる。しかし、駅に向かって歩道を歩く葵の横を、すっと通り過ぎた黒塗りの高級セダンの後部座席に一人で座る人物だけは違っていた。
車は再開発によって整備されたVIP専用の車寄せから道路へと出て来たところだった。広々としたスペースを確保する為に、正面出入り口とは反対側に作られたエントランスは、二本の重厚な柱に存在感を匂わせ、豪奢なガラス扉に荘厳さを漂わせている。
葵は行きには目に入らなかったエントランスを眺め、田舎なら、爺 婆 からほんのガキまで、クソの役にも立たないと言って役場に押し寄せ、喧々囂々 となるだろうと思った。その様子を思い描いて、楽しそうに笑った。それが男の気を引くことになった。
「……亜樹?」
大人の落ち着きと、洗練された容姿に似合う重々しいその声に気付いた者は、誰もいない。
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