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第一部 10-1

「お帰りなさいませ」  省吾は玄関ホールでオオノに出迎えられるとは思わなかった。むしろ立ちはだかれているというべきかもしれない。微動だにしないオオノが邪魔で、家に上がれないでいたからだった。  何ものも欲しいと口にする前に用意される省吾には、向上心と仲間意識を培うクラブ活動というものは意味をなさない。クラスの委員や係といったものも、性に合わないと思っている省吾に任されることはない。それもあって、省吾は受験というものにも興味がなく、既に併設大学への進学を決めている。放課後は省吾と進路を同じにした仲間と適当に遊んだあと、誠司と一緒に帰宅するのが日課だった。省吾一人で帰って来たのは、初めてと言ってもいい。オオノの出迎えにしても同じことだが、慣れていないというよりも気持ち悪さが先に立った。  オオノは誠司を特別扱いしないでいる。藤野家の跡取りであっても、対等であるという彼ら独自の規範を、そういった形で教えている。言葉遣いは丁寧でも、内々では(かしこ)まったりしないのが、オオノの遣り方だった。常に誠司の側にいる省吾も、当然のように同じ扱いを受けているが、省吾に対しても扱いを変えようとしないオオノが、藤野に対してだけは人としての立場を優先していた。送り迎えはもちろんのこと、誰の前でも主人として顔を立てているのだった。 「なんの真似?」  省吾は敢えて物柔らかな口調で、問い質すように尋ねた。  省吾にはわかっていた。ロウの口調が藤野のそれに変わった時、後ろにオオノもいたことを、十分過ぎるくらいにわかっている。オオノもそれを隠すつもりがないのだろう。整っていながらも、印象に残らない顔に露骨なまでの笑みを浮かべ、高級仕立てでありながらも、凡庸(ぼんよう)と思わせる黒いスーツに包まれた肩を軽く(そび)やかしている。 「ご命じになられましたなら、即刻、この場より失礼致します」  省吾がそれをしたがらないと知っていながらの発言には、注意が必要だった。オオノの嫌がらせは巧妙で、誠司がその巻き添えを食うことになり、結果、最後にはオオノに謝罪させられる羽目になる。 〝省吾様に気遣われますとは、オオノ一生の不覚でございます。つきましては、省吾様御手(おんて)でオオノをご成敗頂きたく存じます〟  こうした時代錯誤な台詞で、省吾に出来るはずのないことを願い出ては、ポケットチーフをさっと手に取り、涙をはらはら落とすのだった。それらしい仕草をしているだけとわかっているが、子供の頃から幾度となく見せられているうちに、オオノの猿芝居に乗りでもしたら、あとあと面倒なことになると気付いた。今回も邪険にしようものなら、オオノの制裁が誠司に向かうのは必至のことだ。省吾はオオノにわざとらしい笑いを返し、普段通りの柔らかさで答えていた。 「誠司を脅しても無駄だった?」 「省吾様への忠誠心は称賛に値しますが、我らとの共鳴を蔑ろにし過ぎるのも、如何なものかと思っております。教育係と致しましては、わたくしの方針が間違っていたのではないかと、悩めるところではございます」  省吾はオオノの大袈裟な物言いに、声を上げて笑った。電話で何を話したのかを語らないまま、誠司がどういった顔でオオノの追求を逃れたかを思うと、笑えて仕方がない。 「だからと言って、もし誠司が軽々しく喋っていたら、どうした?」 「それは……まぁ、教育係と致しましては、切腹ものでごさいましょう……」 「なら、問題ないよな?俺はおまえに長生きして欲しいしね」  オオノが緩やかに顔を綻ばせた。省吾にお辞儀をし、道を譲っている。省吾はオオノが自分との遣り取りに満足したと理解し、靴を脱ぎ、笑いながらホール右手の階段へと向かった。その後ろ姿に、奥へと戻るオオノが溜め息まじりに言葉を掛けて行く。 「人というものは、どうしてああも隠したがるのか……」  誠司が人であることに拘る理由が省吾だと知りながら、そう呟いていた。仲間と共鳴する彼らに隠し事は無意味だが、人に拘れば、嫌でも秘密を抱えることになると言いたいようだ。省吾は笑いを微妙に崩して、呆れたように首を横に振り、そのまま階段を駆け上がった。  吹き抜けの玄関ホールを華やかに彩る鉄製の手すりには触れずに、自室がある二階へと弧を描く階段を一気に上り切る。上り切った先の廊下に誠司の姿を目にした時には、さすがに驚いたが、足を止めずに進んで行った。  廊下の突き当たりに、明り取りとしてステンドグラスがはめ込まれてある。誠司はそれを背にして立っていた。両腕を胸の前で組み、主人を待つ犬のように―――とは見えない尊大さで、それでも今か今かと主人を待ちわびる犬のような忠実さでもって、じっと立っていた。  誠司は既に制服を脱いで、Tシャツとジーンズに着替えている。体にフィットするTシャツが筋肉の張りを強調しているが、腰回りが細く、長い足を包むストレートジーンズとの組み合わせで、スタイルの良さが際立って見える。廊下にも絨毯が敷かれてあり、自宅では省吾も誠司も素足でいる。そこは同じだが、誠司だと、素足さえも相手を肉体的に押さえ込もうとする装いの一つに思わされる。しかし、誠司は高圧的な態度に似つかわしくない翳りを、男臭いその顔に浮かばせていた。 「ちゃんと戻っただろう?」  省吾は憮然とした顔で廊下に立つ誠司の肩を邪魔臭そうに押し、場所をあけさせた。そうして廊下を進み、自分の部屋のドアを開けた。

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