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第一部 10-2
藤野の邸宅は、元々は省吾の祖父の剛造のものだった。百年以上前に、当時の蜂谷家の主 が趣味で建てた別宅を、藤野が無理を言って剛造から買い取ったものだった。物珍しさから洋風に建てられた屋敷の外観は当時の趣を残しているが、家の中は藤野が手に入れたのちに、使い勝手を良くする大規模な改修が施されている。
二階に省吾と誠司の部屋がある。あと二部屋、広さはかなり狭くなるが使われていない部屋がある。一階には省吾の部屋とは倍の大きさの主寝室に、書斎、客間があり、廊下を挟んで、家族が集う居間に食堂、台所へと続く。バスルームはそれぞれの部屋に個別に備え付けられている。オオノやアオのような住み込みの使用人の住居は、屋敷を改修したのと同時に建て増しされたが、外観を損なわないよう、車庫と隣り合う奥まった場所にある。主寝室、書斎、客間から望める庭は当時のままで、洋風の建物との対比を楽しむように和風に造られている。
省吾は自室のドアを開けて中に入ると、そのままバスルームに向かった。用を足し、手を洗って出て行くと、部屋の中程で手持ち無沙汰に立っている誠司と目が合った。誠司は飼い犬よろしく、省吾のあとについて部屋の奥まで入り込んでいた。
省吾の部屋は、二部屋を繋げて一部屋に作り直されたものだった。広々とした壁の一面は本棚になっていて、教科書に専門書、雑誌に小説と、種類や形を合わせて整然と並べてある。空いた場所には子供の頃に集めた飛行機の模型が飾ってある。カーテンが寄せられ、柔らかな明かりが差す窓側には重厚感の漂う大きめの机があり、その片隅にノートパソコンが置いてある。本棚と反対側の壁はクローゼットになっていて、それと並行するように身長に合わせて特注されたベッドがある。対 のナイトテーブルには機能的な形のライトが備わっている。そこに読み掛けの本が載せたままにしてあった。クローゼットから少し離れたところに、バスルームへと通じるドアがある。
誠司の部屋も作りは同じようなものだが、性格の違いからか、雰囲気は全く異なっている。教科書も雑誌も、他の雑多な品々と区別なく、そこかしこに放置され、一人掛けの巨大なソファが目に付く場所に置かれてある。毒々しい色彩の古い映画のポスターが、さすがに骨董的価値を考慮して、パネルに入れて飾ってある。省吾の部屋に比べると、まとまりを感じさせないが、誠司によれば、省吾の部屋が綺麗過ぎるのだそうだ。それが逆に落ち着かないと言うが、実際はオオノの干渉を嫌ってのことだった。誠司はオオノによって元通りに完璧なまでに整えられて行くのを拒否し、日々、無駄な戦いを仕掛けているのだった。
省吾にしても、従者を付けると言われた時には、着替えくらい一人で出来ると言って断っている。オオノに任せておけば安心だと言って、納得させていた。誠司の抵抗は、省吾にはオオノを負かしたいが為に駄々をこねる子供にしか見えなかった。
その誠司が自室ではなく、省吾の部屋に入り込み、じっとしている。省吾は机に向かおうとして、またも誠司の肩を邪魔臭そうに押し、その場から退 かせた。上着からスマホとイヤホンを取り出し、机の上に置いてから、クローゼットへと向かい、上着を脱いでベッドに投げ捨てた。
「俺の着替えを眺めるつもり?」
「ふんっ」
その一言で思いの全てを言い表し、出て行こうとしない誠司に、省吾は好きにしろというように背中を向けた。シャツにベルトにズボンと、脱いだものを次々に上着の上に放って行く。誠司に背を向けたままでインナーを脱ぎ、ベッドに腰掛けて靴下を脱ぐ。それも上着の上に放り投げ、裸に近い状態で立ち上がり、クローゼットの抽斗 からTシャツを取り出して着る。
誠司のような圧倒的な肉体美はないにしても、手足の長い均整の取れた省吾の体には、見る者を魅了してやまない造形美がある。色白という程ではないが、肌には輝きがあり、指先で触れてみたい誘惑に駆られる美しさを持っていた。
「話がありそうだね?伯母さんのこと以外に?」
「まぁな」
黒いスキニーパンツに緩くTシャツをたくし込み、細めの白いスタッズベルトを締めたあとで振り向くと、省吾の裸に見入っていたと思われるのを避けたのか、誠司が横を向いて答えていた。
「おまえと電話したあと、サキから連絡が来たんだよ」
サキとは、ロウが卒業した県立高校の後輩に当たる仲間の一人だった。そのサキが去年、ロウのあとを引き継いだと言って、わざわざ省吾に挨拶に来ている。生まれ育ちは違っても、省吾がこちらに来てからの付き合いで、遊び仲間だというのに、それがけじめだと言って挨拶に来た。格式張った堅苦しさを好む男だが、柔軟で人当たりの良さそうなところもある。ロウのような過激さを感じさせないが、ロウ以上の激しさを持っていそうでもある。巧みに隠しているのだろうが、そのせいか、人として見るならナギの従兄弟であるサキは、ナギに代わってクロキの劇場を任されることが決まっていた。大学進学も、経営者として箔をつける為だと、笑い話にも出来る利に聡 い男でもあった。
「今日の不始末を謝っていたぞ、自分の不手際だとな」
「はぐれ鬼のこと?」
省吾は三人を相手に少しも怯まなかった葵の戦いぶりを思い出した。最初の蹴りには、ふっと思わず笑い崩れてしまったが、それを誠司が溜め息と共に重苦しい眼差しで眺めている。憮然としていたのは、どうやら葵のことのようだった。
「あの顔で、サキんところの奴らを、のしたんだってな?」
「それが気に入らない?」
「ああいったツラには、ツラなりの役割ってもんがあるだろ?」
「役割……?」
誠司は葵が知れば激怒するだろうことを、意外だと驚きながらも、認めるしかないことに落胆したような口調で言った。
「サキの野郎、おまえの前じゃ絶対にしないが、裏じゃ結構交信し合っているからな。ロウか
ら聞いたなんて白々しいことを言っていやがったが、こそっとライブで見ていたんだろうさ」
「それで、おまえに電話して来た?ロウがあいつらを嬉々としながら殴ったあとで?」
「ああ、きっちり落とし前を付けたと言いやがった」
省吾はたまらず笑い出した。サキは葵が誠司のことを〝かわい子ちゃん〟呼ばわりしたのも、聞いていたに違いない。誠司と話しているあいだも、内心ではからかいたくて、うずうずしていたはずだ。それでつい笑い声を上げたのだが、誠司に妙な邪推をされては困る。省吾は笑いの理由を哀れな三人のせいにして答えた。
「葵に倒され、ロウに殴られ、その上サキにか?あいつらの身にしたら、とんだ災難だな」
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