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第一部 10-3

「笑いごとじゃない、おまえだって知ってんだろ、ロウよりサキの方が危ない奴だってのをさ」 「だからって、俺はサキを止めないよ、あいつだって馬鹿じゃない、加減はするさ」 「ったく、省吾、おまえが一番危ない野郎だぞ、それもアレのせいなんだろ?のぼせんのも大概にしろよ」 「そう?そんなことを言うのは、おまえくらいだけどね」  省吾は笑うのをやめ、いつも通りの物柔らかさで答えていたが、その声は抑揚のないものだった。誰も彼もが、葵とのことに口を出したがる。誠司の場合は意味合いが多少変わるが、鬱陶しさは変わらない。省吾は誠司にも口出しをするなと暗に伝えたが、それが誠司には面白くないようだった。 「ああっ、クソっ」  誠司は腹立たしげに髪をかきむしりながら続けた。 「あの男が……おまえの父親が帰って来たんだよ。投資の視察って名目の海外出張から、今日の午後、戻って来た。もう少し早く戻る予定が、中央に立ち寄ったせいで今日になったってことだが、戻ってそうそうに、オヤジを呼び出した。それも蜂谷の爺さん抜きでだぞ。あいつ、こう言ったそうだ。義理の兄弟でもあるのだし、この町の将来を担う者同士で、一度じっくりと懇談をしようってな。ふふんっ、懇談だって?笑わせるなっての。あの男はオヤジを使用人としか思ってねぇぞ。それにいつだってオヤジを呼ぶのは爺さんの方って決まっていただろ?」  あの男の見え透いた嫌らしさに、誠司の口元も嫌みっぽく歪んで行く。 「おまえは偶然ってのを嫌うけどな、偶然ってのは起きるもんなんだよ。アレがマキノの店を出た頃を考えれば、あの男がアレを駅で見掛けたとしてもおかしくない。それであの男はオヤジを呼び出した。オヤジも会員になっている行き付けのクラブに、夜遅くに来いとな。それこそ偶然を装って、久し振りに爺さん抜きで気楽に話そうと、心にもないことを言っていたらしい」  省吾は誠司の話に口を挟まなかった。久し振りにあの男の話題に触れたその日に、こうして再び目の前に迫って来られては、平静ではいられないものだ。しかも葵絡みとなると、むかついてならなかった。臍の下辺りが熱を持ち始めたのも、省吾の怒りの感情が血に棲むものに力を与えてしまったからだろう。人としての意志を放棄し、血に棲むものを解放するのは簡単なことだが、それで葵を自分のものにしたとしても、省吾の思いはそこにはない。血に棲むものの欲求が満たされるだけのことでしかなかった。  省吾は強い意志で気持ちを落ち着かせ、物柔らかな口調で答えていた。 「それなら、今夜は伯父さんとは話せそうもない?」 「ああ、オオノにわざとそう言付(ことづ)けやがった。クソオヤジがっ、まだ俺を反抗期の青臭いガキだと思ってやがる」  興奮が過ぎて、誠司の厳つい顔に赤みが差していた。葵にのぼせ過ぎるなと忠告することの裏には、葵とのかかわりを嫌がる気持ちがある。千年のうちに幾重も積もった誠司の複雑な思いは、共鳴する仲間全員が気付いていることでもあった。  省吾はゆったりと笑い、ベッドを回って誠司に近付いた。向かい合う形ですぐ横に立ち、誠司の肩に片手を掛けて宥めるように囁いた。 「心配するな。葵は篠原だが、父親とは違う。あの男が手を出せるような相手じゃない」 「そんなことはわかっている、俺はおまえを……」 「俺?」  省吾の口調がどこかおかしそうだったからだろう。誠司は恥じ入るように視線を逸らし、苛立ちに声を僅かに掠らせて言葉を返していた。 「おまえを相手に寝ちまうくらいに図太い奴なんだろ?そんなんで大丈夫なのかってことさ」 「今、それを言う?」 「はぁん?おまえでも照れるってことがあるのか?」  省吾をからかい返せたことで気分も晴れたのか、誠司の顔付きが明るくなった。視線を戻して、さり気なく話題を変えたことからしても、葵とのかかわりについては、暫くのあいだ様子を見ることにしたようだった。 「事故の件はオオノに伝えておいた。オヤジとオオノは一心同体みたいなもんだからな。オヤジが事故のことを気にしていたのなら、オオノも同じさ」  父親と家令の奇妙な関係を、誠司は少しも気にしていない。省吾の為に人らしくあろうとしているだけで、誠司も藤野やオオノと何も違わないということだ。それは時に省吾の胸に寂寥を覚えさせる。子供の頃から見せられ続けている彼らの繋がりを疎ましく思うのも、こうした時だった。 「オオノが玄関ホールで俺を待ち受けていたのは、そのせい?」 「人に偏り過ぎているだのなんだのと、口煩いことを言い始めやがったから、大切な省吾様のご要望だと言い返してやったのさ。あいつもだけど、オヤジも、自分達の知らないところで、こそこそ話されるのが嫌なんだろ」  省吾は同意するような笑みを浮かべ、誠司の肩から手を離した。ドアに向かい、先に廊下に出て、誠司が隣に並ぶのを待ってから階段へと歩いて行った。 「それで……」  省吾は歩きながら穏やかに声を掛けた。 「……オオノはなんて?」 「素直に話したぜ。もっとも、話自体は大したことじゃなかったけどな。オヤジも引っ掛かっていたそうだ。だけど、まだおまえには知らせたくなかったらしい。もう少し時間が欲しいとも言っていた。今夜のことだって、爺さんを理由に断ることも出来たが、素直に応じたのはその為でもあるそうだ。あの男は今もオヤジ達が自分には逆らえないと信じているからな」  省吾に知らせたくなかったのは、余り深入りして欲しくないと思ってのことだろう。彼らはこの件に、祖父の剛造がかかわっているかもしれないと考えているようだ。  蜂谷の家で暮らした三歳までの記憶にあるのは、剛造のことだけだ。一人で寂しくしていると、剛造は書斎に省吾を招き入れてくれた。これといって何もしてくれなかったが、静かにしているのであれば、書斎にある椅子に座って絵本を読むことを許してくれていた。あの書斎の男らしい革と煙草の匂いが、省吾の記憶には今も残っている。  省吾が心の片隅では剛造を思慕していると、彼らに思われて当然なのかもしれない。違うと否定する気もなかったが、そうしたことで省吾が迷うと思われるのは心外だった。それでも、省吾の頭には剛造を庇っていると言われるような考えがあるのは事実だった。階段を下り、食堂へと向かいながら、あの男は父親である剛造さえも裏切るような真似をしたのだろうかと、省吾は思っていた。  香月家に娘が生まれたことで、蜂谷家とのあいだで行われていた『血の契り』と呼ばれる習わしも続けられなくなった。千年にもわたった誓いは破られたのだが、両家の婚姻で、誓いに代わる繁栄が生み出せるはずだった。香月の娘が男と逃げたことで、『血の契り』で約束された繁栄は完全に消滅したことになる。しかし、この町の繁栄は未だ終わりを迎えていない。  剛造は優希が誕生した日に〝印〟と口にしたが、剛造が省吾を捨て、優希を選んだのも、繁栄の〝印〟が原因だった。剛造の間違った思い込みだとしても、優希が生まれるまで省吾を気に掛けたことは、間違ってはいなかった。  人の世に隠れ棲むその力がこの町に存在する限り、町の繁栄を望むのであれば、蔑ろにするような真似をしてはならない。それをあの男は理解していないのだろう。あの男の傲慢さは剛造の比でないことも確かだった。葵の父親の篠原亜樹への執着が自分のそれと同等であったとするなら、あの男が何かしらしたとしても、省吾には頷ける話だと思えてならなかった。

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