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第一部 10-4 (終)
「伯父さんが話す気になるまで待つかな……」
省吾は誰にともなく呟いた。省吾の中では既に答えが出ている。あとは藤野がどう始末を付けるかだ。今夜、名士と言われる男達が寄り集まる紳士クラブで、あの男と藤野が親しげに話していたことは、朝を待たずに剛造の耳にも入るはずだ。それを承知で、あの男が仕掛けたような気がしている。葵のことは切っ掛けに過ぎないのかもしれない。
悪賢い者同士の腹の探り合いは、さぞかし見ものだろう。省吾は食堂に向かいながら、顔を柔らかに綻ばせた。口元に浮かべた笑みは微かだが、省吾の表情は優しいものになっている。そのまま食堂に入り、ダイニングテーブルで省吾と誠司を待つ伯母の真理へと目を向けた。側には、真理から贈られたエプロンを仕事着にしたアオが、巨大な風よけか何かのようにぬうっと立っていた。
アイドルのような大きな目をした真理の愛らしさのどこを取っても、誠司に似たところは少しもない。辛 うじて瞳の色が真理に似て、誠司の瞳も琥珀のような透明感のある色合いをしている。身長となると、論外だ。真理もそれなりに見栄えのある高さだが、省吾よりもやや長身の誠司と並べば、幼い子供のようだった。高校三年生の息子がいるとは到底思えない、少女のような純真さが真理にはあった。
夫である藤野についても、真理は誠実で努力家と言うが、見方を変えれば、狡猾で独善的な男とも言える。物事を明るく捉える真理の何事にも拘らない性格がなければ、夫の周りに異様なまでに男ばかりが集まるのを疑問に思わず、その中心で楽しく暮らせはしないだろう。
真理の側でニコニコしているアオも、真理が嫁いで来た頃は、まだ十代半ばの子供だった。それも今では三十代だが、見た目のむさ苦しさは年を取った分だけ酷くなっている。藤野家の料理人になってからは、ぼさぼさの長髪は結ぶようになったが、話せない訳でもないのに、まともに喋ろうとはしない。そういった男とも普通に付き合えるのが、真理だと言えるのだった。
省吾は真理の快活で愛らしい外見を眺めながら、仮に誠司が真理に似て生まれて来たのなら、葵好みになりそうだと感じた。しかし、瞬時に否定する。山奥の猿並みの可愛らしさと、真理のアイドル並みの可愛らしさを同等に見るのは、真理に対して失礼だと思う。そう思うことで、聡に勝てた気分になれる自分を、心なしか哀れと感じるのは無視することにした。
省吾の笑顔に気付いた真理がニコッと笑い返して来る。真理はダイニングテーブルに陣取り、全ての準備を済ませて、息子と甥を手ぐすね引いて待ち構えていたようだった。
「もぉっ、おそーいっ、アオを呼びにやらせようかと思っていたのよっ」
誠司は二階で待っていた理由を、省吾に話があるからだとしていたが、気持ちの半分は一人で食堂に行きたくなかったからだろう。母親に向かって遠慮のない口調で、面倒臭そうに答えていたのでわかる。
「バカがっ、アオなんか寄越したって、こっちには、なに言ってんだかわかんねぇんだぞ、無駄だろうがっ」
そう言いながらも、誠司は覚悟を決めたように椅子を引いて座り、自分用に用意されたケーキらしきものに視線を落としていた。真理にしても、息子の口の悪さを気にする風もなく、アオに紅茶を出すよう指示していた。〝うっっ〟と〝うううっ〟で、どう通じ合うのか謎なのだが、真理はアオの唸り声を言葉としてきちんと聞き分けているようだった。
「うっっ」
アオがティーポットを手に可愛らしく唸り、揃いのティーカップに紅茶を注いで行く。誠司のカップに注ぐ時だけ、〝うううっ〟と威嚇するように唸り、言葉遣いに注意するよう脅していた。それくらいの聞き分けなら省吾にも出来る。省吾は自分の席に座り、アオが独自にブレンドした贅沢な味を楽しみながら、他人事のようにそう思っていた。それが誠司には逃げに思えたのだろう。省吾を睨み付けて来る。
「なに?」
「なんでもねぇ」
誠司は省吾のわざとらしい問い掛けに荒々しく答えていた。それでも最初に犠牲になるのは仕方がないというのか、フォークで一口切り分け、ケーキらしきものを恐る恐る口に入れている。ところが、口に入れたと同時に、誠司は驚きの声を上げていた。
「あれぇ?これ、うめぇぞ」
「そう?そう?チョコレートのカップケーキなの。形は崩れちゃったけれど、アオは今までで最高の出来だって言ってくれたわ」
真理が勢い込んで嬉しそうに答えた。それに釣られてしまったのだろう。真理のお菓子作りに関してだけは常に慎重であった誠司が、さらりと真実を口にしてしまう。
「ああ、クソみたいに見えるけど、味はいけるぜ」
途端に、真理が真っ赤になった。そのあとで真っ青になり、それと連動するかのようにアオの唸り声も大きくなる。その状況が誠司には全く見えていない。誠司は最初の一口よりも大きく切り分けたケーキを頬張りながら、弾むような口調で続けていた。
「今まではどっちもひどかったからな。見た目がクソで、味はゲロって、よくもまぁ毎回、飽きずに作れるもんだと、感心していたんだぜ。どう丸め込んでんだか知らないが、味見をさせないアオもアホだけどな」
誠司は瞬く間にカップケーキをペロリと平らげ、省吾のケーキが手付かずなのを見ると、その皿を手前に引き、食べ始めている。省吾は呆れて、というより、母と息子の人としての密な関係に立ち入れない気がしていたのだが、誠司は断りもなく取り上げたことに文句を言われたと感じたようだ。省吾にばつの悪い顔をして見せる。
「腹、へってんだよ」
省吾が何も答えずにいたのは、アオの唸り声がうるさくて敵わなかったからだ。それは誠司も同じだが、誠司はアオの唸り声に何が起きようとしているかを少しも理解していなかった。
「うううっっっ」
「うるせぇぞ、アオ。俺が食ってるあいだは静かにしろよ」
「うううっっっうううっっっ」
そこにオオノが現れなければ、アオは誠司に殴り掛かっていただろう。それ程の勢いだったが、オオノが現れては、アオも唸り声を低く響かせるだけで我慢するしかない。オオノの落ち着いた声音は、それだけでアオを怖気 付かせるものだった。
「奥様、久保様からお電話が入っております。幹事会の日程でお話があるとのことでした。ごゆるりと話せますよう、こちらではなく、お部屋の方にお繋ぎ致しました」
「そう……なの?」
真理は衝撃から抜け出せないまま、よろけるように立ち上がり、ふらふらした足取りで食堂を出て行く。
「どっちもひどかったって、でも、ク……クソはいいのよ、私もわかっていることだから、だけど、ゲ……ゲロだなんて……ああぁ、どうしましょう、お友達に謝らないと……」
その日の夕食のテーブルに、真理の姿はなかった。電話の相手と食事をすることになり、出掛けたからだが、アオには好都合だった。アオが夕食の味付けを、特に誠司の分を悲惨なものにしたのは、言うまでもないことだった。
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