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第一部 11-1
葵は自分の馬鹿さ加減に顔を顰めた。ロッカーの前で、省吾が当然のように待っていると思い込んだ自分を罵倒する。
「クソがっ、間抜けがっ、アホたれがっ、ボケてんじゃねぇぞっ」
葵はロッカーを叩き壊したい衝動に駆られるが、どうにか気持ちを抑えて、腹立たしい勢いのままドスンとロッカーに背中を預けた。こうしていると嫌でも、待たされる原因になった怪しげな男に、声を掛けられた時からの出来事を思ってしまう。ただ待つしかない惨めな時間を凌 ぐには、最悪だとは思うが、スクールバッグを取り戻すまでの辛抱だと諦めた。
昨日はあの通りを出て駅に戻ったあとは、そのまま尚嗣のマンションに帰った。他に寄り道が出来る程、この町のことを知らないからだが、半日一緒に過ごした省吾のことを独りで考えたくもあったからだ。
少しずつ慣れているが、それでも一瞬、田舎の森に―――-それより数百倍は品のある森に迷い込んだかと思わせる前庭 の静謐 とした空間を抜け、いつも通りに、深閑とするエントランスホールで管理会社のコンシェルジュの挨拶を受けた。彼らに軽く頷き返したあとで、最上階へと向かう直通のエレベーターに乗り、フロアに着くと少し廊下を進んで、最上階に一つしかないドアを開けた。出迎える者は誰もいなかったが、葵は気にしないでいた。
町の重鎮である尚嗣は、種々雑多な催しの来賓として、何かと誘い出されている。本来は家にいるべき家令の吉乃 が必ず同行するせいで、葵はマンションで一人でいることが多い。今日もそういった日だったのかと思うだけで、誰もいないマンションに戻ることにも不満はなかった。田舎とは勝手が違うこの町での生活に慣れただけなのかもしれないが、よそよそしさしか感じない尚嗣との暮らしでは、放っておいてもらった方が気も楽でいられた。
葵は自分の部屋に入ると、スマホとコインを取り出し、机の上に置いた。残り僅かになったコインに目を向け、補充する方法が思い付けずに、渋い顔をした。スマホには田舎でもらっていた小遣いの十倍の金額が現金としてチャージされている。尚嗣に、さらにコインが欲しいとは言えそうもなかった。
葵は溜め息と共に制服を脱いでハンガーに掛け、クローゼットにしまった。濃紺の無地スウェットの上下に着替え、シャツと靴下を持ってバスルームに向かった。最初に言われたように、そこにある籠に入れ、ついでに顔と手を洗って、気分をすっきりさせてから部屋に戻った。
机に本棚、ベッドにクローゼット、32インチのテレビにゲーム機という飾り気のない部屋だが、葵が唯一寛げる場所になっている。そこでいつものようにベッドに寝転がり、省吾とのことを思い返していたのだった。
省吾がマキノの店の二階でしたことは、どう考えても、好意の押し付けとしか思えなかった。精神を病んでもいない限り、好きが高じた結果でしかないということだ。
「男ならままある……ってことだろ?」
葵の気持ちを無視したことは許せないが、省吾の形良く整った力強い指でされたことについては腹が立たなかった。それよりも省吾を前に、寝入ってしまったことの方が恥ずかしい。
省吾を好きになったのかと聞かれたなら、わからないと答えるしかない。自信満々でそつがなく、物柔らかな口調が胡散臭くて信用ならない。勿体ぶった態度がむかつく上に、葵を軽く押し倒せる強さには苛立つばかりだ。何よりも最高に憎らしいのは、歴然とした身長差だった。
「すぐに追い越してやるぜ」
褒め言葉が一つも浮かばない男のどこを好きになれるというのか、葵にはわからないでいた。何事も体が教えてくれているが、省吾に関してだけは、うまく働かない。やたらと顔に絡んで来る生徒のように無視をすればいいのに、それも出来ずにいる自分を心許なく感じた。
外見も性格も、省吾は葵の好みからすると大きく外れている。葵が好きになる要素が全くないのに、気になる存在になっている。連絡先を残さない男のことを考えるのが馬鹿らしくてならないが、たった半日の付き合いで、省吾の存在が自分の中で大きくなりつつあるのは無視出来ないでいる。
「気があるのは、あいつの方……なのにな」
世の中には一目惚れというものがある。省吾にそういった純情さがあるとは思えないが、例外というものはある。それでも省吾との付き合いには、惚 れた腫 れただけではないようなところもあった。マキノの店でも思ったことだが、省吾の感情は葵に伝わり、複雑な二人の関係にも影響して行く。今はまだ二人の繋がりも一方向だが、胡散臭くて信用ならない男が相手では、双方向にしたいのかどうかもはっきりしない。
それに葵には聡のことがあった。
この一月 、自らの意志で捨てたと言いながらも、未練がましく夜 ごと思いを募らせていた。見惚れるくらいに可愛い顔を思い浮かべて、体を熱く火照 らせ、眠れぬ夜の慰めにしていた。それが昨夜は、両親の事故以来、初めて朝までぐっすりと眠った。すっきりと目覚めることさえ出来た。昨日の昼間、省吾の側で同じように寝てしまったことを思うと、聡に知られるはずもないのに、悲しませたようで情けなくなった。
葵は聡との関係を誰に知られても構わなかったが、聡は知られるのを嫌がった。恥ずかしそうに瞳を潤ませ、可愛く拗ねられては、葵も隠し通してやるしかなかった。周囲の状況を知ろうと感覚を研ぎ澄ませ、冷静であろうとすればする程、聡が大胆になるとは思わなかったが、秘密にし続けたことで、二人の時間は鮮烈な思い出になっている。二度と会わないと決めた相手だとしても、聡と過ごした甘く蕩けるような日々を忘れることは出来ないでいる。
〝……葵、俺……葵のこと、好きだ、好き過ぎて……変になる〟
記憶に残る聡の声が、しがみついて来た聡の熱が、葵を刺激する。強い意志で記憶を遠ざけても、生々しい感触は葵の体を疼かせた。
「まだ、無理だよなぁ……」
だからこそ、葵は省吾に気を遣った。何かにつけて聡を意識していた省吾の女々しさに、聡を捨てたと責める気持ちが少しだけ救われたように感じたからだ。〝明日の朝、待っている〟と、そうマキノに言い残した省吾を待たせないよう、気遣うことも苦にはならなかった。
「それがなんで俺が待たされている?」
スクールバッグを返してもらう時間を考え、葵は今日の授業で足らない分の教科書を小脇に抱えて、早めにマンションを出ていた。連絡先を残さないような男が、待ち合わせの時間を言い残す訳がない。仕方なく、省吾を待たせない程度の余裕を持って出て来ていたのだった。
「あいつが坊ちゃんだってのを忘れていたぞ」
葵は小鼻を膨らませ、こちらが白けるくらいに優美な容姿を思い、腹立たしげに呟いた。
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