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第一部 11-2

 省吾が選んだロッカーは、駅構内の奥まったところにあった。平日の早朝という時間帯のせいか、ロッカーを利用しようという者も現れず、人の行き来も余りない。待ちぼうけを食らったような惨めな姿を見られずに済んでいたが、それでも時折、葵の前を足早に通り過ぎて行く者がいた。  この町についてまだ詳しくない葵が知るはずもないことだったが、ロッカーが設置されている通路には駅の関係者専用のドアがあり、そのドアがバスターミナルへの近道になっている。本来は関係者以外の使用は禁止されているのだが、運悪く注意をされない限り、勝手にドアを開けて関係者専用の通路を通り抜けて行く者がいた。彼らが葵に目を留めたのも、内心の(やま)しさからだが、葵にすれば、人が通り過ぎるたびに視線を向けられることに嫌気が差すだけだった。 「因縁でも付けようってのか?」  葵は語気を荒くし、視線を向けて来る者達を老若男女問わずに睨み付けていた。誰もが葵の目付きにぎょっとし、目を逸らして、そそくさと通り過ぎて行く。葵は物足りなさを感じたが、追い掛けてまでして吹っ掛けることでもないと我慢した。 「あの野郎、いつまで待たせんだよ」  葵は拳にした手で、ロッカーを軽く叩いた。八つ当たりをしたところで無意味だとわかっているが、イライラは募るばかりだった。  省吾と付き合うのはいい。複雑怪奇な男だが、興味がない訳でもない。だからと言って、省吾を優位に立たせるような付き合いだけはしたくなかった。それなのに省吾を気遣い、その結果、初っ端(しょっぱな)から待たされることになるとは、お笑い種もいいところだ。 「クソがっ」  葵はむすっとし、悔しさの余りに省吾のことを頭から追い遣り、気持ちを切り替えた。それでも完全に無関係なことを考えるのは難しい。  昨日、ベッドであれこれ考えていた時、気付かないあいだに尚嗣が戻って来ていた。いつ如何なる場合にも、尚嗣のマンションは霊廟のように静まり返っている。昨日も吉乃がドアをノックし、尚嗣が書斎で待っていると伝えに来たことで、帰宅していたのを知った程だった。 〝学園を無断で休んだのか?〟  書斎に入るなり、事実だけを事務的に告げられたが、呼ばれた理由に見当を付けていたのもあって、葵にはどうということはなかった。言い訳するつもりもなかったが、露骨なまでに感情を押し殺した尚嗣のひややかさに気持ちが高ぶり、葵はつい強く言い返してしまった。 〝あんたには関係ねぇだろっ、身内だからって、うだうだ言うんじゃねぇっ〟  葵は言ったすぐあとで後悔した。尚嗣は葵を非難していない。事実を口にしたに過ぎないのだ。それを口汚く罵ったことは許されることではない。 〝悪い……ああっと、言い過ぎた……いや、ごめんなさい。だけど、お爺さんを心配させるようなことはしていない。明日はちゃんと行くからさ〟  謝罪して言い直したが、老いてもなお品のある尚嗣の麗しい顔に、母親の面影が微かに覗けるその顔に、優しさが浮かぶことはなかった。葵は元から尚嗣が答えてくれるとは思っていなかったが、静かに頷くことで、葵の謝罪を受け入れたのを伝える尚嗣には我慢がならなかった。短い言葉の一言も、葵とは交わしたくないのかと思うと、ほんの僅かな時間もその場にとどまりたくはなかった。 〝それじゃあ、もういいよな〟  葵は尚嗣の返事も待たずに書斎を出ていた。  何か問題が起きたなら、どうするかの提案は常に葵の方から出している。取引をした時も、父親の遺骨を母親とは別にすると言われただけで、どうしたいかは何も聞かれなかった。葵が取引を申し出たことで、尚嗣は条件を出して葵に応えたのだった。  尚嗣は葵を無理にも自分の思うようにしたことはない。完全に無視をしているのでもない。それならそれで、葵も無視をすればいいだけのことで、楽だったようにも思う。しかし、実際は中途半端なものだった。顔を合わせれば挨拶をし、必要な場合は会話もし、食事も朝夕に同じテーブルで取る。このマンションでの暮らしは、それの繰り返しでしかなかった。  何かと騒がしかった田舎とは違い過ぎる生活に、葵が知る母親が我慢出来たとは思えなかった。母親がこの町で尚嗣と紛れもなく暮らしていたとしても、信じられない。父と娘はどういった暮らしをしていたのだろう。葵には想像も付かなかった。 〝白百合の如く清楚なお姿に凜乎(りんこ)とした物言い、優秀なる(かんばせ)は聖なる輝き、誰しもが憧れた恵理子様は……〟  この町での母親を言い表した言葉を思い出し、葵はくすっと笑った。葬式では愚かな娘と言われたが、マキノの店では、自らを聖女と呼ぶ風変わりな女達の伝説的な憧れになっていると教えられた。本当に馬鹿馬鹿しいとは思ったが、華美な表現を取り除けば、田舎での母親と大差ないようにも感じている。  尚嗣のあの冷たさには、何か裏があるのだろうか。口にしたくない程の何かを、心の奥にひた隠しているのだろうか。それが葵を遠ざける理由になっているのだろうか。そこまでのものだとするなら、尚嗣の秘密を知っていいものかどうかもわからない。  尚嗣が葵の父親を認めようとしないのは、父親がストリッパーだったからだろう。しかも囲われ者でもあった。その相手が母親の婚約者だったとなれば、尚嗣でなくても認めようとは思わないものだ。それなら何故、尚嗣は葵を引き取り、この中途半端な暮らしを続けるのだろう。 「わかんねぇことばっかだな……」  葵はこの町で生きて行くと決めたものの、尚嗣だけを頼りにするしかない暮らしに、息が詰まりそうだった。省吾の誘いは葵にも都合が良かったのかもしれない。両親のことも鬼のことも、解決されたとは言い難いが、おかしな連中と知り合えたことで、胸のつかえが僅かながら和らいだのは確かだった。 「どいつもこいつも、一癖ありそうな奴らばかりだけどな」  葵は彼らの胡散臭さを、面白がれるくらいに親しみを感じている自分に驚いた。 「胡散臭いのも、イカしてるってことさ」  昨日、呟いたことをもう一度言い、ニヤリとしたが、気持ちは再び尚嗣へと向かって行く。すると葵の顔付きが何とはなしに引き締まった。今朝、家令の吉乃が食事の用意をしながら話してくれたことを、葵は思っていた。

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