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第一部 11-3

 昨夜は尚嗣も居心地の悪さから夕食の席には現れないと高を(くく)っていたが、大きな間違いだった。尚嗣は決めたことは何があっても守り通すというかのように席に着き、いつにも増して寡黙に、まさに霊廟のような静寂さでもって陰鬱に食事をしていた。葵まで鬱々とし、何を食べているかもわからない気分にさせられていた。  今朝も気が滅入るのを覚悟していたが、尚嗣は朝食の席に姿を見せなかった。ほっとしたと同時に、拍子抜けした気分にもなっていた。それが顔に出ていたのだろう。普段は尚嗣への配慮から、必要最低限のことしか話さない吉乃が、わざわざ事情を説明してくれたのだった。 〝今朝は朝食会のご予定がございます。尚嗣様がごゆっくりしておられますのは、その為でございます〟  吉乃は尚嗣の冷淡さを補おうとするかのように、紹介された時から変わらない明朗さで話していた。  吉乃が尚嗣に仕えたのは、従者見習いとして香月家に雇われたのが始まりだった。中学を卒業したばかりの吉乃には、当時まだ大学生だった尚嗣は若く美しいだけでなく、恐れ多い程に神々しい存在だった。吉乃のその思いは少しも変わらず、二十数年後、家督を継いだ尚嗣から香月家の家令に就くよう言われた時には、身に余る光栄と恐縮したものだった。  尚嗣の吉乃への信頼は厚く、先祖代々の広大な屋敷からマンションに(きょ)を移した時にも、吉乃がいれば十分と、吉乃以外の使用人には紹介状と過分な退職金を渡して暇を出している。尚嗣の世話やスケジュール管理はもちろんのこと、通いの家政婦の手配など、今では吉乃がいなければ、香月家は一日たりとも立ち行かなくなっていた。  尚嗣より年下だとはいえ、吉乃も相応に年齢を重ねている。それでも尚嗣の為、穏やかさと穢れなさを身にまとい、揺るぎない忠誠心で寄り添っていた。尚嗣がひた隠す何かも知っていそうだが、ほんの少しの手掛かりさえ漏らしはしないと、葵にもわかっていた。今朝のことは、葵も知っておくべきことだとして話したのだろう。 〝香月家と蜂谷家の朝食会は、先々代の治世(ちせい)に始まりました。世の中が大きく変化した時期でもございましたので、町のご様子など、お二人だけで気軽にお話し合われるには、朝食という席がとても都合がよろしかったのでございます。年に数回程度ということで、両家共に気兼ねなく続けられたのだと聞かされております〟  そこで吉乃の顔に微かな翳りが浮かんだのを、葵は見逃さなかった。吉乃自身も気付いていなさそうな雰囲気に、割り込んで話の腰を折るよりも、邪魔をしないよう黙ったままでいることにした。その方がこの話の要点を早く掴めると、葵は思った。 〝今回の朝食会は、元々は先月に行われる予定でございました。諸々の事情によりまして、延期されることになり、尚嗣様も当分のあいだはないものとお考えのようでございました。ですが、先日、蜂谷様から今日にとのご連絡がございまして、尚嗣様も迷われましたが、ご了承されるしかなく……〟  両親の事故が理由で延期されたようだが、嫌々出掛けるような言い方からして、事故を口実にしていたとも言える。しかし、葵はそれについても問おうとはしなかった。そのこと以上に、気になる名前が吉乃の話にあがっていたからだった。 〝蜂谷?〟 〝はい、両家の主従関係は千年にわたって続いております〟  母親が起こしたスキャンダルも、家と家との繋がりには影響を与えないのだろう。朝食会という爽やかな名前が嫌みに聞こえる付き合いにも、出掛けなくてはならないようだ。主従関係というものに興味のない葵には、ご苦労なことだとしか思えなかったが、葵の顔に嘲りが浮かんでいたとしても、吉乃は気付かないふりをした。そうすることで、葵が蜂谷の名前を口にしたことの意味を、それとなく緊張気味に尋ねていた。 〝鳳盟学園に蜂谷様のお孫様がおられます。ご存じでしょうか?〟  省吾の胡散臭さも、千年という年月を前にすれば、吹けば飛ぶようなものなのかもしれない。気に病んだところで、大した意味もないように感じさせる。 〝ああ……まぁ、知っているかな〟  葵が省吾を思って口元を緩めると、吉乃は緊張を解き、声の調子も柔らかくしていた。 〝そうでございましたか、既にお知り合いとは思いませんでした〟 〝俺がお爺さんに心配するなって言ったからか?それで逆に心配させたってのか?〟 〝それ程のことではございませんが、出来れば、何事もなく過ごせるようにと、尚嗣様は願っておられます〟 〝あんたさ、お爺さんもだろうけど、俺がサボった理由が蜂谷にあるんじゃないかって、あいつに嫌がらせでもされてるんじゃないかって、そう思ってるのかよ〟  思い違いも(はなは)だしいが、吉乃がいつにもなく饒舌だったのは、尚嗣に代わって学園での様子を聞こうとしたからだった。葵にとって省吾は胡散臭くて信用ならない男だが、誘われたことと学園は全くの別問題だ。それに翔汰に聞かされた話を思えば、尚嗣が憂えるのはおかしなことでもある。真面目で優しくて下級生に意地悪をしないカッコイイ先輩だと、翔汰はべた褒めしていた。尚嗣が何を危惧するのかわからないままに、葵は吉乃に答えていた。 〝あいつは高等部なんだし、中等部の俺に何をしようっていうのさ〟 〝えっ……?〟  知り合ってから今まで、短いあいだだが、吉乃が息を呑み、言葉を途切れさせるのを初めて見た。安堵の色を消しただけでなく、何事にも焦らず穏当に接する吉乃が、顔色(がんしょく)を失わせている。それが葵を驚かせた。

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