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第一部 12-1

「やあ、待たせたみたいだね、悪かったよ」  省吾はにこやかに笑い、葵の怒鳴り声にも物柔らかな口調で楽しそうに答えた。葵が自分だけを見詰め、声を張り上げたのが、省吾には嬉しくてならない。あの瞬間、葵の頭にあるものが自分のことだけだとわかったからだ。怒りだろうと構わない。葵の心を乱すものが他に何もないのであれば、好ましいくらいだと思う。強いものが勝ち残るのは、感情も同じだ。過去は過去となり、新たに二人の関係が始まったということになる。 「ごちゃごちゃ言ってねぇで、さっさと開けろ。俺は遅刻したかないんだ」  葵が誠司達四人を、わざとらしく無視しているのも面白い。四人を気にする素振りを見せないのが、逆に省吾との繋がりを気にしているように感じさせる。それなら省吾も応えてやるしかないだろう。省吾はのんびりした口調で、葵にならって、わざとらしく言った。 「大丈夫だよ、次の列車でも、ギリギリ間に合う」  同じ調子で葵にゆるゆると近付き、その歩調に合わせて、省吾と葵を囲むようにする四人を端から紹介し始めた。  洗練された顔付きの生徒の名前はコウと教え、精悍な顔付きの生徒についてはリクと知らせ、異国風の端正な顔付きの生徒のことはメイと伝えた。葵は彼らから〝よろしく〟と言われるたびに、嫌々ながらも挨拶を返している。省吾はこれも伝説の恵理子様の躾の賜物(たまもの)なのかと思いながら、上着の内ポケットからスマホを取り出した。 「クソがっ、やっとか」  省吾からスマホを取り上げんばかりの葵に優しく笑い掛けてから、ゆったりした仕草でロッカーの鍵を解除した。透かさず、葵が省吾を押し退け、ロッカーに突進し、自分のスクールバッグを引き出した。床に起き、ファスナーを開けて、小脇に抱えていた教科書を突っ込み、肩に掛けながら立ち上がる。その無駄のない素早さは、見ているだけでも胸のすくような動きだった。しかし、葵が一人で歩き出そとするのは頂けない。省吾は葵に覆い被さるようにして自分のスクールバッグに手を伸ばし、葵の足をその場にとどめさせた。 「あんた、ホント、鬱陶しい野郎だなっ」  葵が顔付きをきつくし、省吾の思惑もお見通しと睨んで来たが、どうにもならない体格差に苛立ったようにも見える。一年もすれば相当縮まるだろうが、まだまだその差は極めてはっきりしている。  省吾は葵の思いに触れるように口元を優しげに緩め、すっくと体を伸ばして、スクールバッグを柔らかな手付きで肩に掛けた。それだけのことでも、雅やかな魅力に溢れ、余りに自然である為に、相手は言葉をなくす。葵以外の者達は、必ずそうなる。 「クソがっ、たらたらしやがって。俺は急いでんだぞ」 「何をそんなに急ぐ?」  葵はすぐには答えなかった。考えるように少しだけ唇を歪ませたあとで、省吾に向かって見せ付けるように意味深に笑った。 「いつか話してやるよ」 「へぇ、それは楽しみだな。ちゃんと約束してくれる?」 「あんたはさ、すぐにそうやってかわい子ぶるよな?似合わねぇからやめろ」  葵のつっけんどんな言い方にも、省吾は柔和な笑顔を返していた。 「そう?おまえに関しては、何もかもが本気だよ。何度も言ったのに、まだ信じてもらえていないみたいだね?それなら……うん、また約束しようか?今日の昼、食堂で待ち合わせるというのは……どう?」 「言っただろ、信用ならないあんたと約束なんかしないってな、今朝のでもう懲りた」 「ちゃんと謝っただろう?まだ許してくれないのかな?」 「ったりめぇだろうが、〝待っている〟っていうあんたの伝言を信じたせいで、ここでぼーっと突っ立ってるしかなかったのは、俺なんだぞ」  言いながら歩き出そうとした葵の背中に、省吾は楽しげな笑い声を響かせた。葵の話で、葵が省吾を思って早めに来ていたのがわかったからだ。待ち合わせの時間も決めていなかったのにと思うと、もう笑うしかなかった。 「待てよ。まだ一人、紹介していないだろう?」  礼儀を叩き込まれた葵に、その言葉を無視することは出来ないはずだ。そう踏んで、瞬間、どう出るかを待った。葵はイラっとしながらもくるりと振り向き、むくれた顔で省吾を見返した。こうしてすぐに、葵は折角の美貌を台無しにしたがる。それを戒めようと、葵の頬へと手を伸ばしたが、葵の方が素早く動き、邪魔臭そうに軽くその手を振り払っていた。  省吾は顔に笑いまじりの苛立ちを浮かべたが、腹を立てたからというのではない。そうしたことで葵との戯れを楽しんでいた。 「キス一つ、貸しがあったじゃないか?それとも、こいつらの目が気になる?」 「はぁ?ふざけてんじゃねぇぞ」 「本当に、つれないよなぁ」  省吾の声音はどこまでも明るく、誠司達四人の耳にも心地良く響いて行く。その心地良さを、誠司だけは素直に取れないようだ。他の三人とは違って、一人だけ(しか)めっ面をしている。  省吾と葵が二人にしかわからない遣り取りをしているあいだも、彼ら四人は黙って眺めていたが、ずっと同じ場所に立っていたのではなかった。二人の動きに合わせて、微妙に位置を変えている。誠司以外の三人は省吾の背後へと移動し、何を思ったのか、誠司だけは葵の後ろへと移動していた。  三人は葵の強気な言い返しに、ニヤついている。誠司だけは機嫌の悪そうな顔付きのまま、葵の後ろで仁王立ちしている。葵には三人のニヤニヤ笑いしか見えていないが、誠司がどういった顔付きでいようが、同じようなものと思っていそうだった。 「おまえの後ろにいるのが、従兄弟の誠司、おまえに紹介出来て嬉しいよ」  省吾はほんの少し腰を屈め、甘さを含んだ声音で葵の耳元に囁くように続けていた。

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