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第一部 13-1

 葵はあと少しで校門というところで、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り始めたのを耳にした。 「クソがっ」  必死に走り、鳴り終わる直前にどうにか間に合った。ほっとしていると、息を切らす葵の背中で、門が閉じるガチャンという重々しい音が響く。  『鳳盟学園』の校門は敷地を巡るフェンスと同様に、歴史ある校舎に相応しい錬鉄製の品格に溢れたもので、伸び行く若草の洗練された芸術的な模様が目を引く。車二台がゆうに通り抜けられる幅があり、開き門扉(もんぴ)である為に、中高それぞれの敷地に合わせて、左側を高等部の生徒が、右側を中等部の生徒が出入りすることになっている。  葵が走り込んだ時、左側は高等部の風紀当番によって既に閉じられていた。右側は必死に走っていた葵に気付いた中等部の風紀当番が、待ってくれていたようだ。高等部の当番二人が、中等部の当番二人に嫌みな笑いを投げ掛け、馬鹿にしたような顔付きで離れて行くのを、目の(ふち)に捉えたことでわかった。  葵が編入するずっと以前は、チャイムが鳴り始めた時に、門を閉じようとしていた。現在は、何分(なにぶん)にも古い作りであり、鳴り終わった時に完全に閉じているには、数分早く動かし始めなくてはならなくなった。そのせいか、最近は鳴り終わる前に閉じられてしまうのだった。中等部の当番二人は、高等部の当番に馬鹿にされながらも、葵が通り抜けられる隙間をあけて、待ってくれていたことになる。  門に鍵を掛けて、遅刻した生徒を締め出す訳ではない。門を閉じることで、風紀当番の役目が終わったことを知らせているに過ぎない。つまりチャイムが鳴った時点で遅刻になる。当番の仕事は、鳴り終わるまでは門にとどまり、その僅かな時間内に登校した生徒の手帳を受け取ることで終了する。教室に戻る前に職員室に寄って報告するのだが、手帳があれば担任へと渡すことになっていた。  風紀当番に手帳を預けることで、チャイムが鳴り終わる前には学園にいたことを証明出来る。遅刻をしたのは確かでも、保護者には連絡が行かず、担任からの厳重注意で済ませてもらえる。そうした事情を、学園に通い始めて四日目の葵に理解させた者は誰もいない。遅刻せずに済んだとほっとしたのも束の間、その日の当番二人に生徒手帳を渡せと詰め寄られ、激怒してしまった。 「はあぁ?間に合っただろうがっ、俺の田舎じゃ、こんなもん、遅刻でもなんでもねぇぞっ、ふざけやがってっ」  こうした態度に出られたのが、風紀当番の二人には初めてのことのようだった。二人は余りの驚きに目を大きく見開き、返す言葉もなくガタガタと震え始めた。二人して手を取り合ったかと思うと、互いにその手を命綱のようにぎゅっと強く握り合っていた。それでも二人で事に当たれば多少は強くなれるようで、恐怖に涙した目で葵を睨み返していた。しかも葵にきつく凄まれようが、役目には忠実で、〝手帳、手帳〟と、弱々しいながらも二人して交互に声を絞り出していた。  動物も含め、気弱なくせに、兎にも角にも負けるものかと強気な態度を見せるものに、葵は物心ついた頃から勝てないでいた。ふっと諦めの溜め息を漏らし、上着の胸ポケットから生徒手帳を抜き取り、指の先に挟んで二人に差し出した。 「あんたら、根性あるな。そういうの、嫌いじゃないぜ」  葵が笑顔を見せると、二人は先程とは別の驚きに目をぱちくりさせた。葵の稀に見る美貌に改めて気付かされたというかのように、頬をほんのり赤くしている。それで葵への恐怖も去ったようで、互いに握り締めていた手を離していた。 「手帳、いらねぇのかよ?」  葵の問い掛けに答えるように、二人のうちの僅かながらも気の強そうな一人が、おずおずと震える指先を伸ばして来た。そして葵の手から取り上げる瞬間の素早さは見事なもので、葵の目を楽しませてくれた。それだけでなく、今度は二人して声を揃えてこう言った。 「クラスは久保君と同じだよね?」 「久保って、あんたら、委員長と知り合いか?」  二人は同時にこっくりと頷いた。声と同様に、寸分違(すんぶんたが)わず揃った仕草も、葵の好みに見事にはまった。可愛いものだと思うと、生徒手帳は担任に渡されると言われても、あとで小言と一緒に担任から返されると教えられても、腹が立たなかった。葵は二人の説明を漫然と聞き、気にするようなことだとも思わなかった。 「ふーん、そっか。じゃ、あとで担任と話を付けるさ。取り合えず俺は教室に行きゃあいいんだろ?」 「うん」  返事までぴったりと揃う二人に、葵は笑った。 「あんたらも一緒に行くか?」  二人は同時に首を右と左にそれぞれが動かし、顔を向かい合わせた。目と目で何かを話し合ったようだが、何を語り合ったかは葵にはわからない。ただ一瞬、二人の周囲で空気が揺らめいたような気がした。仄かな揺れは、気のせいとも思わせるものだった。それに二人は、何事も起きていないように、すぐに葵へと顔を同時に戻していた。 「僕達はもう少しここにいる」  やや強気な方が先に答え、もう片方がそれに続いた。 「気にせず、先に行って。久保君が待っていると思うから」 「委員長が?」 「うん」  返事だけは、やはりぴったりと揃っていた。葵はクックッと抑えた笑いを二人に残し、校舎へと向かって歩き出していた。  二人との遣り取りは、葵の気持ちを和ませた。金持ち学校と思って敬遠していたが、もう少し視野を広げてもいいように思わせてくれる。尚嗣と約束したからには、意地でも通い続けてやると固く心に決めている。その思いに変わりはないが、時々サボって遅刻して、葵らしく適当に楽しみながら通っても構わないように思わせてくれた。

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