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第一部 13-2
「こんな気持ちになるなんて……おかしなもんだよな」
学園をサボって省吾と過ごした半日の時間がなければ、風変わりな二人組の風紀当番のことも笑えなかっただろう。昨日は省吾に好き勝手されたが、葵自身も好きなようにしていた気がする。両親のこと、鬼のこと、答えは謎のままだが、この一月 、肩肘張って、自分に無理をさせていたことには気付かされた。
「だよな?こんなもん……」
きっちりと締めるネクタイが息苦しいと感じるのなら、緩めればいい。葵はグイッと結び目を引き下げ、シャツのボタンも上から二つ外してから、校舎へと足を向けていた。
広大な敷地を有する『鳳盟学園』は、気品ある校門を抜けたあと、石畳に沿って真っ直ぐに進むと、古き時代の趣ある学園本部の壮麗なレンガ造りの強固な建物へと出る。一階は高級ホテルにも引けを取らないエントランスホールで、屋敷町の駅舎と同じ天然石が使用され、一段高いところからは土足禁止であり、中央にある階段が三階まで続いている。二階は中高共有の教職員室に会議室、指導室があり、三階は学園長室に応接室、どの部屋よりも立派な理事長室がある。最上階は時鐘を打つ時計台で、遠くまで見渡せる尖塔になっていた。
階段の裏手には時代に即してエレベーターが取り付けられ、さらに進んで中庭に出ると、中高共有の食堂があり、渡り廊下で繋がっている。本部の建物を中心に、左側が高等部の敷地になり、右側が中等部の敷地になっている。中高どちらの校庭も広々とし、端には体育館があり、室内プールやテニスコートなどの運動施設が整備されている。更衣室にはクラスごとに分けられた生徒全員のロッカーが用意され、奥にはシャワー室もある。その建物に隣接してクラブハウスが建ち並んでいる。隅には倉庫があり、裏口へと回れば駐車場があり、そこから中庭へも出られるのだった。
学園本部と同じレンガ造りの校舎は、三階が一年生の教室で、二階が二年生、一階が三年生で、中高どちらの生徒も、エントランスホールからしか校舎には入れない。それぞれの校舎の出入り口が、エントランスホールに作られているからだった。出入り口を通ってすぐのところに、生徒や教職員用の下駄箱が設置されている。そこで上履きに履き替えたあとは、中等部と高等部の生徒が交わることはない。緊急時を除いて、中心の建物へと行けるのは一階だけで、食堂へ行くにも、教職員室へ行くにも、エントランスホールに出てからしか行けないことになっていた。
葵も登校時の賑わいが収まったエントランスホールを通り抜け、迷いもなく自分の下駄箱を目指した。スニーカーから三年生のカラーが入った上履きに履き替え、そのまま一階の廊下を進んで、教室の引き戸を勢いよく開けた。
「……今日も、篠原は休みか?」
葵が引き戸を滑らせたのと同時に、担任の事務的な声が耳に届いた。担任は出席確認を終えたところのようで、誰も座っていない葵の席に視線を向けていた。その目が教室の後ろの出入り口へと移り、葵の姿を確かめると、表情を微かに緩めたようにも見える。
「ああ、遅刻だな」
葵の乱れたネクタイに視線を流し、批判的な口調で訂正する。葵は片眉をクイッと上げて不服そうな表情で答えただけで、何も言わずに机に向かい、スクールバッグを脇に起き、席に着いた。
窓際の列の一番後ろに一つだけある席は、急遽用意されたものだというのは、編入初日に聞かされている。やたらと顔に絡んで来た生徒が、聞いてもいないのに、にやけ面で話していたからだ。
〝だから目立つよなぁ、おまえの顔とおんなじだ〟
その言葉も無視して、ふいっと横を向き、やたらと絡んで来た生徒から離れた。葵にすれば、だからどうだという話だが、葵に居心地の悪さを感じさせようとしたのなら、成功していたと言える。たった二日とはいえ、クラスメートでまともに話したのは翔汰だけだった。それも親しみからではなく、クラス委員長という立場を尊重したからだった。
葵は両親の死後、当たり前に過ごしていた生活を捨て、何かに付けて抗議が出来るような立場でないことにも耐えていた。両親の死に対して自分を責めていたせいもあるが、心の奥底では、尚嗣や他の全てのことと同じに、秘密ばかりの両親にも腹を立てていたからかもしれない。その結果、葵自身で周囲に壁を作っていたようだと気付く。
そこで省吾の優美な顔が脳裏に浮かび、ふっと鼻先で笑った。胡散臭くて信用ならないだけでなく、似合いもしないのに、かわい子ぶるようなふざけた野郎だが、言いたくないことを言わないという憎らしさに嘘はない。突飛な考えだが、そういう意味でなら、それ程に悪い男でもないように葵は思った。省吾には絶対に教えたりはしないが、省吾との付き合いが楽しみだと思えるようになっていた。
省吾のことを考えた時、葵自身も知らない間 に、顔付きを優しくしていた。田舎では、それで葵の機嫌がいいとわかり、誰もがほっと胸を撫で下ろしていたものだった。
この町に来てからの葵しか知らない者達には、真新しい席でゆったりとする葵が異様に映る。昨日までとは、正確に言うと一昨日までの二日とは、どことなく様子の違う葵に、教室の空気も、声にならないざわめきに淀み始めた。担任にも、教室に漂い出した不確かな何かが見えたのだろう。眉間に皺を寄せ、何が起きているかを探るような口調で葵に言った。
「篠原はあとで職員室に来るように」
葵は顔を上げ、微かな光に煌めく瞳の中心で、真っ直ぐに担任を見返した。葵の美貌を真正面から望むことになった担任が、はっと息を呑んだのは、教室中の誰の目にも明らかなことだった。
これまでの葵は、俯き加減で誰ともかかわろうとはしなかった。担任に対しても同じだったが、気持ちの変化が葵の態度を変えさせていた。担任が顔を赤らめたことには苦笑したが、思ったことは躊躇 なく口にする。
「俺もあんたに用がある。生徒手帳を取り上げられたからな。あとであんたんところに貰いに行くつもりだった」
声にならなかったざわめきが、突然はっきりと教室中に響き出した。葵の口調を真似て、言葉を繰り返し囁き合っているだけだが、クラス全体となると、囁き声も大きなものになる。
「静かに、静かにしなさいっ」
教師には礼儀正しく接する学園の生徒が、担任の前で騒ぐようなことはまずない。初めてのことに戸惑う担任の声は、弱々しげに掠れていた。担任には事態を収束させられそうもなかった。
葵から見れば、自分らしい物言いを真似るクラスメートにむっとはしても、騒がれるようなことだとも思えず、訳がわからなかった。担任が困り果てていることは理解出来た。クラス委員長の翔汰が困っていることもだ。それで葵は声を荒らげた。
「うるせぇぞっ!黙りやがれっ!」
その瞬間、教室中がしんと静まり返る。担任もクラスメートも唖然とし、怯えを含んだ驚きに、言われた通り口を閉じていたのだった。
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