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第一部 13-3

 静かになったのは良かったが、クラスメートの震え上がるような雰囲気には、呆れるしかなかった。何が悪くて、怖がらせたのかはわからない。葵には馬鹿らしいだけだったが、自分が原因であるのは理解していた。 「ああっと、俺のせいだよな?」  葵は担任のメンツの為にも、自分で収まりをつけるより他ないと思うのだった。 「すまなかったよ、先生」 「気に……しなくても、い……」  そこで担任は、自分が何を言おうとしていたのかに気付いたようだ。教師の威厳を損ないそうなことを口にし掛けたとわかり、慌てて言い直していた。 「いや、兎に角、あとで職員室に来るように」  葵は返事をする代わりに担任に目を向け、じっと見詰めたあとで、軽く頷いた。下手(へた)に何か言おうものなら、また騒ぎになりそうな予感がしたからだ。担任も同じ思いだったようで、葵が頷いたのを機に、そそくさと教室を出て行ってしまった。すぐに一時間目の授業開始のチャイムが鳴り、教科担任が入って来ると、教室の雰囲気も元通りになっていた。  その後は休み時間のたびに、葵は翔汰と過ごしていた。途中のままになっている学園の案内を終わらせるというのが理由だったが、やたらと顔に絡んで来た生徒が姿を見せなかったからでもある。  翔汰は最初、葵が生徒手帳を貰いに職員室に行くまでは遠慮がちだった。ホームルームでの騒ぎが影響しているのか、大した小言もなく解放された時にも、翔汰の態度に変わりはなかった。 〝個人的には、君のような生徒は歓迎なんだ〟  物静かな口調で語り出した担任にも、葵と一緒に職員室に入った翔汰は控えめだった。葵の後ろで、おとなしく立っていた。葵はチンケな説教でもされるのかと、身構えていたのだが、実際のところ、担任の話は葵には意味不明なものだった。 〝私のような一介の教師がどうこう言えることじゃないが、学園も来年には大きく変わるだろうと思っていたんだよ。いいか悪いかは結果だからね、その時にならないとわからないが、君が来てくれたことで、思っていたのとは違ったものになりそうではあるかな〟  葵には、どことなく翔汰に向かって話しているような気がした。担任が葵の後ろに隠れるようにしていた翔汰に笑い掛けていたからだが、思い違いだったようにも感じている。 〝もちろん、遅刻も無断欠席も二度としないように。それと制服もきちんと着るように〟  そう言ったあとで、生徒手帳を返してくれた。担任は葵の緩めたネクタイには批判的な視線を投げても、葵の顔には一切視線を向けようとはしなかった。化け物扱いというものではなかったが、顔さえ見なければ大丈夫という態度で、葵を翔汰もろとも追い払っていた。 「意味、わかんねぇぞ。来年って、そんな先の話、俺にされてもな?」  翔汰に説明してもらおうと掛けた言葉にも、翔汰は恥ずかしそうに首を小さく振るだけだった。控えめな様子は可愛いもので、急いで答えを知らなくても構わないと思わされたが、同じように職員室から出て来た派手な一団に近付かれてからは、翔汰の態度も違ったものになる。葵とのあいだにあった遠慮という垣根が取り払われ、昔からの馴染みのような親しさへと変わるのだった。 「なんとか間に合った?」  葵は出来ることなら、物柔らかな口調のその声を無視したかった。職員室で担任の話を聞いていた時、遠く離れた場所で、その声の(ぬし)と四人の生徒が、担任と(おぼ)しき教師と話していたのには気付いていた。だからといって、仲間(づら)して近寄ろうとは思わなかった。互いに、遠く離れたその距離を保ったまま、別々の校舎に戻ることにも問題はなかったはずだ。 「俺は昨日、体調を崩して休んだだろう?」  向こうも同じだと思っていたが、厚かましくも声を掛け続けて来る。葵は中等部の校舎に戻ろうとしていたのだが、立ち止まるしかなかった。  翔汰が石像のように固まっていなければ、思い通りにしていただろう。葵は翔汰を見捨てる訳にも行かず、仕方なく、おっとりと話し掛けて来る生徒の優美な顔を、空気を読めとばかりに苛立たしげに睨んでやった。しかし、無駄だった。 「今朝も調子が悪くなるとは思わなくてね、途中、駅で気分が良くなるのを待っていたんだ。おまえは遅刻したくないと言って、俺を置いて行ってしまったけれど、友達は俺に付き合ってくれてね、それで俺達みんなして、一時間目の授業に間に合わなくなった。そのことを、担任に説明しに来たんだよ」  どこの女子の話かと突っ込みたくなるような、それでいて、真実味に溢れた明らかな嘘を聞かされ、葵もだが、後ろにいる四人も、物柔らかな口調のその生徒の淀みない弁舌に顔をひくつかせていた。唯一その場で生徒の身を本気で心配したのは、翔汰だけだった。生徒を目の前にして、これ以上ないくらいに顔を真っ赤に染め上げた翔汰だけが、生徒の体調を真剣に気遣っていた。翔汰は石像となっていた身をぎこちなく動かし、勇気を奮い起こして、話し掛けることにしたようだった。 「だ……だ、だ……だ、じょ……ぶ、ぶ……ぶ、す……か?」  何かの暗号のような喋り方にも、生徒は少しも動じず、笑顔を見せる。その上で、初めて興味を示し、見るからに優しげで涼やかな眼差しを翔汰に注ぎ、柔和な口調で爽やかに問い掛けていた。 「君は?」 「ぼ、ぼ、ぼっ……」  生徒に声を掛けられ、まともに話せない翔汰に代わって、葵がクラス委員長だと翔汰を紹介した。生徒が誰かは言うまでもないことだった。蜂谷省吾、翔汰の動揺ぶりからしても、憧れの先輩であることを、省吾にわざわざ教える必要はない。それでこの奇怪な立ち話も終わるはずだった。ところが、あろうことか、省吾は葵と約束した昼に翔汰も招きたいと言い出している。それでも、まだ葵には気持ちに余裕があった。今朝、はっきりと断った昼の約束なら、軽く無視出来ると思っていた。  省吾との付き合いを楽しむというのは、そうした駆け引きもあってのことだ。省吾を翻弄してやろうという葵の(わる)だくみでもあったのだが、真っ赤になってもじもじする翔汰に、葵の思いが理解出来ようはずはない。 「ぼっ、ぼっ……も?」 「ああ、是非に」  翔汰の暗号にもきちんと答える省吾の魅惑の笑顔に、翔汰が敵う訳がない。いとも簡単に悪魔の微笑みに落ちた翔汰は、感動の余りに目を白黒させて頷いていた。

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