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第一部 13-4 (終)

「あんた、最低だな……」  省吾が勝手にした約束を、葵が無視しないよう翔汰を人質にしたのは、わかり切ったことだ。省吾の友達というセットメニューの定番商品のような四人も、葵と同じ意見のようだった。三人はハンサムな顔を楽しげな笑いに崩し、厳つい顔の一人はさらに顔付きを恐ろしくしている。葵は四人が省吾を止めるものと期待したが、彼らは何も言わないだけでなく、何もしない。それならと、葵が一計を案じて、省吾を(くじ)けさせてやることにした。  葵は放心状態の翔汰の腕を取り、されるがままの翔汰を連れて、エントランスホールへと階段を下りようとした。下りる直前で、思い出したように顔だけ省吾に向けて、嫌みったらしく言葉を継ぐ。 「……そうだ、あと二人分の席を用意しておけよ。言い忘れたけど、委員長とそいつらで昼の約束していたからさ。ああっと、無理ならいいぜ、気にすんな。俺らは俺らで楽しくやっからさ、じゃ、そういうことで」  昼の約束を無視する理由が出来たと思う葵に向かって、省吾が笑った。笑顔というにはうっすらとし、寒々しいものではあったが、笑い掛けている。  思い通りに行かないことに出会うと、省吾はこういった顔を見せるのだろう。それに応えようと思い、葵はニタリと笑って、比類ない美貌を見るも無残に壊すのだった。すると省吾が笑みを消し、それなのに優しさを感じさせる程に、麗しい顔を曇らせている。省吾は葵の挑発に激怒しているようだった。  葵はこれで省吾が言う約束も反故(ほご)にしてやれたと喜んでいたのだが、考えが甘かった。省吾は思い通りにする為なら、しつこくなれる男だということだ。 「わかったよ。その二人も連れて来るといい」  省吾はそれだけ言って、葵と翔汰を捨て置くかのように、さっさと先に階段を下りて行く。その優雅で秀麗な後ろ姿を、翔汰が興奮が過ぎて脱力したような顔で見送っていた。  省吾の後ろに付き従う四人のうちの一人でも翔汰を見下せば、葵も黙ってはいない。葵が省吾を憎らしいとは思っても、省吾に憧れる翔汰を、彼らが馬鹿にすることは許されない。そうしてくれたなら、憂さ晴らしになったかもしれないが、葵にはセットメニューの定番商品に見えても、彼らは学園の人気者だ、騒ぎはご免というのだろう。葵の思いを察したように、誰一人として翔汰を見下したりはしなかった。それどころか、去り際に、赤褐色の肌をしたメイと紹介された生徒が、翔汰に投げキッスをしてみせる。微かに〝カワイイ〟と、子供っぽい口調で囁いたのさえ聞こえていた。 「クソがっ」  葵は省吾を困らせるつもりが、またも好きにさせてしまったようで悔しくてならなかった。 「なんなんだ?このモヤモヤした気持ちは?俺はあいつに負けたのか?ああん?負けたのか?」  翔汰に向かって叫んだところで、翔汰に理解出来ることではない。省吾さえいなければ、幾らでも冷静になれる翔汰は、メイの投げキッスにも動揺しない豪胆さを見せ、休み時間が終わりそうだと穏やかに話している。葵に取られていた腕も、そっと静かに外して、子供を諭すような調子で葵を中等部の校舎へと促していた。 「クソがっ、ああっ、クソがっ、クソがっ」  先に階段を下りて行く翔汰の後ろで、葵はまたも省吾への罵倒を繰り返していた。さらには、苛立たしげに髪をかき上げていると、翔汰に落ち着き払った声音で、それをたしなめられてしまった。 「篠原君……」  呼び掛ける翔汰の口調は、説教をしようという教師を思わせた。 「先輩のことをクソなんて言っちゃダメだよ、それに嘘もね。先輩の誘いを断るみたいに、あと二人分の席を頼んだりして、そんな約束、誰ともしていないだろう?食堂でちゃんと先輩に謝らないとね」  小憎らしい教師もどきが、最後には可愛らしくにっこりと笑っている。葵は嘘吐きは省吾の方だと言いたい思いが、哀れな程に(しぼ)んで行くのを感じた。省吾に嘘を言っていないことは確かだった。多少の脚色はあっても、嘘ではないと翔汰に説明しなくては気持ちも収まらない。 「校門で俺の生徒手帳を取り上げた二人組、委員長の知り合いだって言ってたぜ。俺だって、いつまでも一人でイキがってやしないさ、委員長の知り合いなら、ちょうどいいだろ?だから、そいつらと委員長とで、昼でもと思っていたんだよ」 「えっ?えぇっ!」  エントランスホールを抜けて、中等部の校舎に差し掛かったところだった。翔汰が驚きの声を張り上げ、周囲が何事かと振り返っている。〝おいおい〟と思う葵をよそに、翔汰は頬を紅潮させ、周りの視線も気にせずに長広舌を振るうのだった。 「二人が今日の当番だっていうのは知っていたけど、篠原君が遅刻してくれたから、って、くれたなんて言ったらダメだよね、でもね、それで二人と僕のことを話せたんだもん、構わないよね。あっと、あの二人、双子みたいに似ているけど、親戚でもなんでもないんだよ。田中君と井上君、ちょっと強気な方が田中君って覚えておくといいよ。一年の時に同じクラスで、すぐに仲良くなって、二年も二人と同じで嬉しかったんだけど、三年になって僕だけクラスが分かれちゃったんだ。だから、昼はいつも待ち合わせて、一緒のテーブルで食べているんだよ。本当は今日の昼に、僕の方から篠原君を誘って、二人をちゃんと紹介しようって思っていたんだ。さっきまでは、先輩に誘われたから、今日はダメだなって思っていたけど、ううん、二人はきっと僕を羨ましがるだろうなって、ちょっといい気になっていたかな。たけど、田中君も井上君も、先輩に誘われたってことだもん。凄いよ、凄い。早く二人に知らせたいな、きっと卒倒しちゃうよ」  省吾の前では、何かの暗号のように一文字ずつ途切れ途切れに喋っていたのに、葵の前では続けざまに早口で喋り立てる翔汰の勢いに、葵の方が卒倒しそうになっていた。 「あっ、だけど、篠原君はどうして先輩と知り合いなの?」  〝今頃それを聞くのか!最初にそれを疑問に思わないのか!〟と、心の中で叫び返しても、小首を傾げてメチャクチャ可愛く言われては、葵も素直に答えるしかない。 「ああっと、たまたま?あいつが……駅で?一人でいて?声を掛けられた?というか……誘われた?みたいな?」  誤魔化すつもりはなかったが、昨日の出会いを簡潔にまとめると、葵には疑問形の羅列のような説明しか出来なかった。しかし、翔汰にはその説明で十分だった。 「そうなんだ、さっきもだけど、いつも誰かが必ず側にいるのに、たまたま先輩が一人の時に出会えるなんて、篠原君は運がいいんだね」 「……ああ?」  翔汰の中で省吾は絶対的に善なのだと思うと、葵は割り切れない複雑な心境に陥る。いつもの調子で口にしそうになった言葉も、少し前に翔汰に叱られたのを思い出し、声を潜めて呟きに変える。 「……クソがっ」  地団駄を踏むとはこういうことなのだと思いながら、葵は翔汰に聞こえないよう密かに省吾を罵倒していた。

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