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第一部 15-1

 ボーっとしていた葵の耳に、四時間目の授業終了のチャイムが響いた。田舎でもそうだったが、教科書に一通り目を通せば、理解が出来てしまえる葵には、体育以外の授業はどれもかったるい。葵は授業のあいだ我慢していたあくびを思う存分出してから、物憂げな仕草で席を立った。  クラスメートは食堂に向かって、あっという間にいなくなっている。すきっ腹を(かか)えて苛立つ葵も、我先(われさき)に急ぎたい気持ちは同じだった。省吾が勝手にした約束がなければ、翔太を()き上げ、同級生達を蹴散らしてやりたいとさえ思うが、得意満面な省吾の顔がちらついて気分が乗らない。葵はこのままとんずらしてやろうかとも思ったが、朝の風紀当番二人が待つ場所へと誘う翔太のニコニコ顔には勝てず、食堂に向かう生徒達で賑わう廊下の最後尾を、釈然としない思いで歩くのだった。  『鳳盟学園』は中等部高等部共に、一学年につきA組からD組までの四クラスで、クラスの人数は二十人と決まっている。退学などの諸事情で六年間のうちに多少の変動はあっても、昼休みには、教室から溢れ出た五百人近い生徒達が食堂へと急ぎ足で向かって行く。  そうした騒ぎを避けるように、風紀当番二人との待ち合わせ場所は、下駄箱が並ぶ出入り口近くのひっそりと奥まったところだった。D組の翔汰はA組の二人をいつも待たせてしまうのだと、申し訳なさそうに話していたが、翔汰の口振りには、どことなく心許なさがあるように、葵は感じた。 「あっ、いたよ。今日も待たせちゃった」  その声に、二人が同時に顔を向けていた。動きがぴったりと揃う二人に答える翔汰の笑顔は明るく元気で、不安を感じたのは気のせいだったと、葵に思い直させた。  二人は翔汰が葵を連れて来たことには、さして驚きを見せなかったが、省吾に昼食の席に招待されたと聞かされた時には違った。それには衝撃を受けたようで、二人揃って顔面蒼白になっていた。  翔汰は二人のその様子を、自分と同じで感激の余りに言葉もないと見ていたが、葵には驚愕と恐怖に何も言えないように映るのだった。校門では葵にも怯えを見せていたが、二人の反応には、それ以上の何かがあるように思えてならない。  翔汰の省吾への憧れは度が過ぎている。まともに喋れない程に好きなのは認めるにしても、省吾の全てを正しいと見るのは間違っている。省吾の言動の怪しさから目を逸らさなければ、胡散臭さにも気付けるはずだ。そこら辺りが二人には見えているのかもしれない。それもあって、葵は二人に好感が持てた。翔汰が改めて葵を紹介しようという時にも、仲間意識を強くして、二人の名前を葵の方から口にしようと思った。 「ああっと、あんたが鈴木で……」  葵は今朝がた、校門で多少なりとも強気な態度で生徒手帳に手を伸ばして来た一人を指差してから、隣に並ぶもう一人へと指を動かして続けた。 「……で、あんたが山田だ」  自信満々で、どうだと言わんばかりの態度で言ったが、二人が同時にむすっとしたのに気付き、戸惑わされる。赤の他人だというのに、双子のように見分けるのが難しい二人を、きちんと判別したというのに、何が不満なのか、葵にはわからなかった。葵と二人のあいだに立つ翔汰までが、非難するかのような重い溜め息を吐いたとなると、馬鹿にされているような気分になる。 「ああん?なんだ?その態度はよ?」  ほんの少し声を荒くしただけで、葵にすれば凄むという程でもないのに、二人は校門で見せたのと同じように震え始めた。さすがに手を取り合ったりはしなかったが、翔汰の後ろに隠れてしまうのだった。小柄な翔汰に二人を隠すことは無理なのに、その小さな体で不思議と二人を守り切れている。 「篠原君……」  翔汰が葵を呼ぶその口調は、エントランスホールで〝クソがっ〟と省吾を罵った時に聞かされた説教を思い出させる。説教とまで行かないにしても、似たことを言うのだろう。何も悪くないと思う葵には、(はなは)だ理不尽な扱いだとしか思えない。葵はその美貌をきつくすることで、凄みが増すとも知らず、真っ直ぐな眼差しで翔太を見据えてしまった。  葵がこうした顔付きをした時、田舎では誰も逆らおうとはしなかった。大体において、葵が正しいからだが、それより葵を本気にさせるのを恐れたからでもあった。葵の美貌に荒々しさが表れた時、比類ない美しさへの称賛は恐怖に変わり、誰にも何も出来なくさせるのだった。  それを葵が気にしたことはない。聡の言葉に救われるまでのほんの一時期にしたことが、仲間うちにそれ程の影響を及ぼしたとも思っていない。無理のない自分を見せていただけのことに、思い悩んだりしないものだ。ただ普通に、自然に振る舞うことで、相手を怯えさせるとは思ってもいなかった。  風紀当番の二人は、田舎の仲間達が見せたように、翔汰の後ろで震え上がっている。それさえ葵には見慣れたもので、気にならなかった。薄茶色の瞳に光が差して金色に輝いたことも、二人をさらに怯えさせたようだが、朝のホームルームでその片鱗を見ている翔汰は、溜め息を深くするだけだった。葵は教師ぶった説教好きの翔汰に手を出す気はないが、腹が立ってならない。 「篠原君、そんな怖い顔したってダメだよ。名前を間違えた篠原君が悪いんだからね、ちゃんと二人に謝らないと」 「はあぁ?」  翔汰の話が正しいとすると、大変な間違いを犯したことになる。それでもまだ、葵は自分の間違いを認める気にはならなかった。あの時の翔汰の興奮を思えば、翔汰が言い間違えたというのも有り得る。葵は少しだけ口調を和らげたが、疑わしげに続けた。 「鈴木と山田じゃねぇのかよ?そう言っていただろ?気の強そうなのが鈴木で、そうじゃないのが山田だって、だらだらと喋りまくっていた時にさ」 「僕はちゃんと田中君と井上君って言ったよ。先輩に声を掛けられたあとで、まだ夢心地だったけれど、親友の名前を間違えるなんて、する訳ない」  翔汰の理屈に合った反論に、葵は完全にやられた。親友の名前を間違えるアホはいない。省吾への異様な憧れを除けば、葵にも翔汰がアホでないのはわかっている。 「なんてこった」  葵は自嘲する軽い笑いを漏らした。恐怖を生んだ美貌も、その一瞬で、見る者を陶然とさせる輝かしい美しさへと戻る。同時に、ほっとした息が翔汰の背後から少しも外れずに揃って聞こえたが、翔汰だけはほっとするどころではなかったようだ。 「篠原君こそ、僕の話、全然聞いてなかったんだね?」  翔汰は幼さの残る顔を怒りに紅潮させ、小柄な体で憤然と、葵を下がらせる勢いで詰め寄っている。 「鈴木と山田なんて、どこも似たところのない名前なのに、間違えるものなの?」 「だよな?委員長が正しいよ」  葵は翔汰の勇ましさを、半ば面白がり、半ばつつき返すようにして答えた。 「悪かったよ、鈴木と山田なんて言ったりして。よくある名前だってのは記憶していたからさ」  葵は翔汰の頭越しに二人に謝った。そのあとで、翔汰の目を見て、からかうようにして繋げた。 「女の長話みたいなもんだったろ?まともに聞いてられるか……ってな?」 「あちゃぁ」  田中と井上が声を揃えて、咎めるように言った。理由は翔汰の赤みを帯びた顔が、真っ赤に燃え上がったのでわかった。翔汰は頬をぷっと膨らませ、葵にくるりと背を向けて一人で歩き出してしまっている。 「あれはまずいよ、興奮した時の久保君の話が長くなるのは、いつものことだしさ。慣れてあげなきゃ」 「うん、それも先輩のことだからね、からかったりしたら、傷付くよね」  息まで揃えて来る二人が、声を揃えずに喋ったことが、葵を苦笑させた。遣り過ぎたことは葵にもわかっている。省吾に夢中の翔汰が憎らしくて、ついからかってしまったが、翔汰の反応が面白い上に、可愛くて仕方がないのだから、やめられるものではなかった。

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