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第一部 15-3

 田中と井上の二人は、翔汰の怯え方を面白がっている。葵は二人が同時にした目配せに頷き、嫌がる翔汰そっちのけで、他にもある幽霊話を聞きたがってみせた。そうやって三人で、翔汰をからかい、慰め、反撃して来る翔汰の小さな拳とふざけ合いながら、エントランスホールに出て、階段を回り込んで渡り廊下を進み、食堂へと向かうのだった。  中高共用の食堂は全面ガラス張りで、正面に自動ドアの出入り口がある。そのドアも生徒が出入りする昼食時は、殆ど開いたままになっている。空調完備の現代的な造りの食堂は、端から端までの広い空間全体が穏やかな明るさに包まれている。 「建て替えられる前の食堂は、木造建築の古びた建物だったんだ。晴れの日にも暗くって、雨漏りにも悩まされていたんだよ」  翔汰は以前の食堂の不衛生さを強調したあと、最後に残しておいた学園の案内だと言って、建物の中に入るなり、食堂の歴史を葵に語り始めた。 「ここは学園創設時からある裏庭が望めるように建てられているんだよ。前のもそうだったんだけれど、古さを大切にするってことで、補修工事を繰り返していたら、見えなくなっちゃたんだ。六年前に寄付があって、今風の明るい建物に造り替えることが出来て、それでまた昔みたいに、自然風景を()した自慢の裏庭が楽しめるようになったんだ」  その為に、ティーラウンジとして、教職員や外部の関係者にも利用されるようになったのだと、翔汰は続けた。 「だけど、先生達は全部別料金なんだ。それで、昼も予約された分を職員室まで運んでもらえる。昼の利用は生徒だけだよ。だから、造り替えた六年前に、食堂の運営と管理は生徒会に任せようってことになったんだ」  食堂には十人掛けの丸テーブルが、程良い間隔で部屋一杯に、生徒全員が座っても余りある数が用意されてある。クラスごとに席が決められてはおらず、好きな席に自由に座っていいことになっている。既に席について食事を始めている生徒もいるが、殆どが厨房と配膳が一体となった提供カウンターに並んでいる。そこで二つあるメニューの好きな方を選ぶのだが、人気メニューは高等部の生徒に譲ることになっている。  葵が初日に少し聞かされたことだと思っていると、翔汰も心得顔でニコリとし、話を自分達のことへと移して行った。 「僕達はいつもあのテーブルで食べるんだ」  翔汰が示したそこは奥まった場所で、出入りに不便であるばかりか、日当たりも悪く、ガラス張りの建物の中で唯一、噂の幽霊も好みそうな薄暗い場所だった。 「それで、先輩がいつも使っているのが、あそこだよ。職員室の廊下で会ったよね?あの四人と先輩の席なんだ、十人掛けだから半分はあいているけれど、遠慮して、誰も座らないんだよ。たまに生徒会の役員が招かれることはあるけどね」  そこも端ではあったが、出入りにも不便はなく、日当たりのいい明るい場所だった。しかも学園自慢の裏庭を一望出来る位置にある。そのテーブルに、今は誰もいない。それなら先に誰かが座っても良さそうだが、誰もそこに近付こうとはしなかった。 「あいつ専用か?」 「そんな感じかな、あの席だけは厨房の人がトレイを運んでくれるし」 「あのカウンターの列に並ばなくてもいいってことか?」 「うん、先輩が入学する前の年に、食堂を請け負う会社も変わったんだ。先輩の友達の親が経営するチェーン店にね、だから厨房の人達とも知り合いみたい」 「だとしても、異常だろ?」 「でもね、それまでは正直ひどい味だったそうだよ。会社が変わって、食堂もこうして建て替えてもらえたし、味も凄くおいしくなったから、誰も何も言わないんだ。早い者勝ちになるけれど、おかわりだってしていいって、厨房の人に言われているしね」  この町での序列というものが、こうした学園の食堂にも表れている。上位にいる者達は、恩恵を存分に受けて暮らしているのだろう。特に学園内では『蜂谷』という名前が重要だというのは、葵にもわかることだった。  そして葵が少なからず知ることになった『蜂谷』には、弟がいる。兄の蜂谷と違って弟の方は、同学年であっても、顔も名前も知らないままだが、翔汰を介して気付いたことは、兄とは別の意味で胡散臭そうだということだった。 「他にもいるのか?」  葵はさり気なく翔汰に聞いてみる。弟も兄と同じ待遇なのかを知りたくなったからだ。 「ほら、あいつみたいに桁外れな奴ってのがさ」 「うーん、どうかな?先輩は本当に凄い人だから」  先輩第一の翔汰に聞いたのが間違っていたが、核心は見えたように思う。兄弟というと、葵には聡とその兄が思い浮かぶが、兄の男らしさに憧れる聡とは兄弟の様子も大きく違い、比べられない。だからこそ、家庭の事情と話していた兄と、その弟の奇妙な対立が見えたような気がした。 「あの野郎、俺への嫌がらせだけで、委員長まで誘ったんじゃねぇぞ」 「えっ?何?」  問い返してはいても、翔汰は葵の独り言を少しも気に掛けていない。憧れの先輩に直接誘われたとはいえ、まだ誰もいないテーブルにそわそわし始め、提供カウンターに並んでいいものかどうかも悩んでいる。 「やっぱ、あいつ、最低だぞ、委員長まで巻き込みやがって……」  葵は省吾を無視していつもの薄暗い席で食事を始めればいいと、翔汰に言おうと口を開き掛けた。その時だ。葵の顔にやたらと絡んで来た生徒が翔汰を呼んだ。これも無視すればいいことだが、委員長という立場から、翔汰にはそれも出来ないでいる。話があると叫んでいる顔はへらへらして、如何にも軽薄そうだったが、担任に頼まれたと続けられては、話を聞きに行くしかないようだった。 「先輩も来てないし、ちょっと行ってくるよ」  省吾が現れるまでの時間潰しになると思ったのだろう。翔汰は笑ってその生徒に近付いて行ったが、その生徒の顔を見た時から、葵の中では、冷徹とした警戒心が意識的に働き出していた。  周囲の空気の振動と匂いに異変があると、葵にはそれがわかる。体が自然と臨戦態勢に入ったことでも、その感覚に間違いがないと悟る。この食堂に足を踏み入れたのが初めてだというのに、普段と違うものがあると感じてならない。 「なぁ、あんたらさ、毎日ここに来てんだろ?なんか、いつもと違うって感じること、ないか?」  普段を知らない葵には、どうしてもはっきりしない。田中と井上に聞いてみるしかないと思ったが、二人して顔色を失っているのを見て、その答えを聞く必要もないと知る。二人の視線の先には翔汰がいた。翔汰はプラスチック製のコップを手に持ち、中の液体を零れ落とすくらいに震えながら、葵のところへと戻って来た。 「久保君……それって?」  田中と井上が、いつもはぴったりと揃える声を耳障りな調子に乱していた。 「そんな……久保君、そんなもの……」 「わ、わかっているよ、わかっている……でも、こ、これをカラにしないと、田中君や井上君にも迷惑を掛けることになるから、だ、だから、ぼ、ぼ、ぼ……くが……」  葵には話の筋が見えないが、翔汰と二人にはわかっているようだ。翔汰は震える手でコップを口元に持って行き、ただの水にしか見えないその液体を飲もうとしている。それを葵は翔汰の手首を掴んでやめさせた。

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