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第一部 15-4 (終)

「篠原君……?」 「本当はそれ、俺に飲ませろって言われたんじゃないのか?」  翔汰は葵に掴まれた手首を震わせながら、何も答えず、ただ首を小さく振るだけだった。 「それで、言う通りにしないと、この二人、鈴木と山田に何かすると脅されたか?」  不意に翔汰の震えが止まった。翔汰は上目遣いに葵を見詰め、説教じみた口調でもう一度、葵の名前を口にする。 「篠原君……」  葵はこうした時にも、弱々しいだけではない翔汰のその平常心に心を打たれたが、まさか本当に説教をされるとは思わず、溜め息を漏らす。 「……田中君と井上君だってば、本当にいつになったらちゃんと覚えてくれるの?」 「はあぁ?……ちぇっ、なんだよ」  一旦そう記憶されたものは、簡単には直せないものらしい。葵はまたも名前を間違えたとわかり、悔しげに口元を歪めた。逆にそれが翔汰を元気付けたようで、翔汰の顔が泣き笑いのようなおかしなものになって行く。 「心配すんな」  葵は翔汰の手からコップを取り上げ、中の液体を一気に飲み干した。翔汰と田中と井上の三人が揃って叫び、先生を呼びに行くと言って駆け出そうとするが、中等部の生徒数人に押さえ込まれ、身動きもままならない。 「離せっ、離せったら、篠原君に何かしたら許さないぞっ」  翔汰まで二人と声を揃えていたが、威勢がいい割に三人ともが力ではどうにも出来ない。むしろ騒ぎ立てたことで、中高両方の生徒を寄せ集めることになってしまった。  提供カウンターの列が崩れ、ガタガタと椅子を引く音もする。多くの足音が葵へと集まり、騒ぎを撮ろうとでもいうのか、大半の生徒達がスマホを手に画面を覗き込んでいる。葵には、自分が画面の中心に位置しているのがわかっていた。  その時、葵の体がぐらりと傾いた。手から滑り落ちたコップが床を転がる。葵はコップと同じになる訳には行かないと、足を取られる前に近くのテーブルに手をつき、倒れ込まないよう体を支えた。 「ろくでもないことしやがって」 〝一つ助言しておこう……〟  醜悪なモニュメントがある公園で、省吾に言われたことが蘇る。 〝……この町で暮らすのなら、薬には……安易に口にしない方が……忘れないことだ〟  そこに、高熱で(うめ)いていた時に聞いた母親の言葉が重なる。 〝葵、大丈夫だから……あなたの意志が認めない限り……あなたが認めれば……効いて来るから……〟  今の葵がするべきことの答えは、自分の中にある。それは省吾も知っていたと気付く。 「あの野郎、やっぱ最低だぞ」  そう小声で呟きながら、葵は妙な気分に体を熱くし、その熱に火照る頬を隠そうと下を向いた。それを待っていたかのように、やたらと顔に絡んで来た生徒が、葵の傾いた体に覆い被さった。背中から首に腕を回し、耳元に口を近付けて囁いて来る。 「ストリッパーの父親みたいに、おまえも見世物に……な……た……?」  何を言うつもりだったとしても、その生徒は最後まで言い終われなかった。空気を切り裂くシュッという鋭い音がした次の瞬間には、床に吹き飛ばされていたからだ。葵はというと、眩しい程の美しさですっくと立ち、床に尻をつけて座り込んでいる生徒を、平然とした顔で見下ろしていた。  この騒ぎを取り囲んでいた生徒達にも、何が起きたのかは見えていない。気付いた時には、葵に覆い被さっていたはずの生徒が床に吹っ飛んでいたのだった。  期待するような目で騒ぎを眺めていた生徒達の表情が、困惑げなものに変わって行く。スマホを手に待ち構えていた生徒達は、戸惑い気味に画面を見直している。しかし、脇腹を押さえて、床に座り込んでいる生徒が、他の誰よりも当惑していたのは間違いないようだった。 「な……なんで、おまえ……飲んだだろ?」 「ああん?なんのことだよ」  葵は恐ろしいまでのひややかさで、その生徒を見詰めた。瞳に光が差して、金色に輝き出す。凄烈とした眼差しの無情さには、狂気さえ漂う。その目に怯え、床に吹き飛ばされた生徒が尻で後ずさっていた。  葵は僅かに腰を屈めて、逃げようとする生徒の胸倉を片手で掴んだ。あばらに軽くひびでも入ったのだろう。その生徒が異様な声を上げたが、それも無視して無理やり立たせる。葵と背格好が同じだというのに、その生徒は葵の手を振り払えないでいる。それどころか、爪先立つまで持ち上げられたことで首が絞まり、息苦しさに喘いでいた。 「や……やめ……ろ」 「聞けねぇなぁ、てめぇが始めたことだろ?」  生徒は必死な思いで視線を横に動かし、翔汰達三人のことを葵に思い出させようとする。 「クソがっ、根性なしのくせしやがって」  葵が生徒の視線を追って、そちらに目を向けると、三人を押さえ込んでいた生徒数人がはっと息を呑んだ。葵の美貌を真正面から望み、その比類ない美しさに恐怖を見たのか、怒りを秘めた冷徹な眼差しに怯えたのかはわからないが、葵に何を言われるでもなく、三人から手を引いている。生徒数人がふらふらと後ろに下がると、三人はすぐに一塊(ひとかたまり)になって葵を見上げていた。  三人の目に浮かぶものが称賛しかなかったことが、葵をほっとさせた。自分の暴力を気にしたことはないが、三人がその暴力の相手ではない。田舎では聡がいたことで、葵は自分らしくいられたが、自然に振る舞うことに疑問を持たないからこそ、三人の目に恐怖が見えたなら、葵は自分が許せなくなっていたかもしれない。  葵は心の中で、翔汰と二人に感謝していた。この時にも、二人を鈴木と山田と思っていたことには気付かないままだが、それも葵は気にしない。 「いいか、よく聞けよ」  葵は凄みを利かせた声音で、生徒の目を見て言った。 「二度と俺に、それとあの三人にも構うんじゃねぇぞ、わかったな」  生徒は苦しげに息を吐き、顔を真っ赤にして頷いた。それを見届けたあとで、用済みになった生徒を床に放り投げる。生徒は泣き崩れるかのように床にへたり込んでいたが、醜態をさらしたからといって許されはしない。新たな騒ぎが始まると、その時の葵には感覚として理解出来ていた。 「それで終わりかい?」  食堂に響き渡った物柔らかな口調には、愉悦の滴りと憤怒の迸りという相反する感情の揺れが、同時に漂い流れていた。

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