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第一部 16-1

 省吾は食堂へと向かう途中、それを目にし、瞬間的に全身の血が沸き立つのを感じた。すぐに血に棲むものが動き出さないよう意志を強くしたが、臍の下辺りには気配さえも起きていない。純粋に人としての省吾の怒りの感情しかないように思えた。 「そんなことがあるのか?」  省吾は誰にも聞かせないよう、口の中で小さく呟いた。  二時間目からの登校で教室に向かうまでは、激しい刺激を受ければ、臍の下辺りがちりちりと熱を持ったのに、たった数時間で何が変わるというのだろう。人でいようとする意志の境目が曖昧になっているような気もする。  妙なもので、化け物を抱え込んでいることを忘れさせてくれるのなら、人並み外れた強い意志を必要としない不確かな状態も悪くないと思う。その一瞬の高揚感に、目にしたものが消えることはないが、臍の下辺りが落ち着いていることには、喜びしか感じられない。  省吾は慌てることなくゆったりと、いつものように誠司達四人と食堂に向かって歩いていた。テーブルは用意されている。その席までトレイも運ばれて来る。それで急ぐ必要がどこにあるというのだろう。はっきり言って、どこにもないと思っている。  これ程の待遇は高等部になってからだが、中等部に入学した時から、何くれとなく厨房からの配慮はあった。事前に席を確保しておくことや、人気メニューを取りおくことなど、今と大して変わらないが、上級生への遠慮というものを多少は見せていた。  特別であることを許すのは、食堂の建て替え資金を寄付したのが、藤野であるからだった。しかも設計から建築、メンテナンスを含め、厨房を取り仕切るチェーン店に至るまで、藤野の傘下にある会社で固めてある。学園側が食堂の運営と管理を生徒会に任せたのは、生徒の自主性というもっともらしい理由だけではない。食堂の請け負い会社の代表者がリクの父親で、その男はリクと同様に藤野達の仲間でもあった。寄付から始まる一連のこと全て、藤野が謀ってしたことだと、省吾にはわかっていた。  とかく噂のある稼業はそのままにして、それを元手に成り上がった藤野の錬金術は、まさに魔法の杖を一振りするようなものだった。投資に不世出の才能を見せ、有り触れたものや値打ちのないものから莫大な儲けを生み出している。省吾と誠司達四人を学園に入学させる為にしたことも、三年後の優希の入学には更なる寄付を剛造に用意することで、蜂谷家とも話をつけていた。藤野は金で丸く収まることには、遠慮というものを一切しない主義だった。  外に出されたとはいえ、省吾も『蜂谷』であることに変わりない。体面を保たなくてはならないが、優希より目立つのは許されない。更なる寄付とは、そういった意味になる。剛造が受け取るのは当然なのだが、三年のあいだに出来上がってしまった学園内の序列を、『蜂谷』の名をもってしても、むしろ『蜂谷』の名が邪魔をして、優希には省吾を超えることが出来ないでいる。現実には、省吾が優希のすることに関心を持たなかったことで、本来の立ち位置に、優希もその周りの者達も気付けないでいるだけだった。  学園のトップであるはずの優希が、高等部に影響を及ぼしながらも目立った動きをしていないのは、()がりなりにも兄である省吾への気遣いだと思われている。それも省吾は否定しないでいた。表立って対立すれば、優希とかかわることになる。省吾は関心のない相手とかかわること程、面倒なことはないと思っていた。  藤野が周到に準備したことに、抜かりはない。学園の厨房に回された従業員が彼らの仲間であるのは、疑いようもないことだ。藤野達は血に棲むものの為に、省吾を強い意志を持った人に成長させるのに金を惜しまず、細心の注意を払って思うがままに甘やかした。マキノは省吾のことを〝図体ばかりが大きい俺様子供〟と言ったが、そういう子供にしたのは彼らだった。  省吾はそのことに不満はなかった。血に棲むものが暴走しないように、強い意志を持ちさえすれば、自分を明け渡さずに済む。受け入れ切れないのは、省吾が何をしたとしても、常に血に棲むものが存在し、人としての無力さを見せ付けられているように感じてならないからだ。  葵と出会い、省吾は葵を人として欲しくなった。葵にもそうあって欲しかった。血に棲むものが望む陰と陽という存在で惹かれ合いたくはなかった。それなのに、葵は最初から血に棲むものと意志を融合させている。驚き、羨み、葵の姿が少しも不自然でないことを、妬ましく思った。  人としての葵は、誰の為に存在するのか、葵の中にいる血に棲むものは考えるまでもないことだが、そのどちらも省吾という存在の為にあるのは、動かしようのない事実だった。葵がそれを自らの意志で理解しようとせずに、人らしい無用な挑発を仕掛けて来るのが恨めしい。  血に棲むものを思ったからだろうか。そこで思うように行かない苛立ちに、臍の下辺りが疼き出した。省吾は敢えてそれを意志で追い払うのをやめてみた。暴走するなら好きにしろとばかりに、捨て置いてみる。すると何故か疼きが治まった。自然と口元が緩み、血に棲むものがニヤリとしたように感じる。それは紛れもなく、省吾自身の思いでもあった。  教室に向かう廊下で〝言わずもがなだぞ〟と、自分の考えとは思えない言葉を感じた時と同じ不思議な感覚だった。頻繁に臍の下辺りが熱くなったことも、何も変わらないと、省吾であることに変わりないと、知らせようとしていたのかもしれない。それとも互いの意志が利益の一致を見たのかもしれない。今この時、この目に映す葵の姿に苛立つのは、省吾であり、血に棲むものということだった。  省吾は長年のあいだ悩んでいたことが、大したことではないように思えた。藤野達大人が、誠司達仲間が、省吾を大切にし過ぎただけのことだとわかって来る。 「葵じゃないが、山奥で暮らすのも、捨てたものではないってことか?」  口の中で呟く声に、体がふわりと軽くなり、血に棲むものが笑ったように省吾には感じられた。  省吾はエントランスホールを抜けて、渡り廊下に差し掛かった時、食堂に入ろうとする葵の後ろ姿に気付いた。葵はクラス委員長の小猿とパンチを打ち合う真似事をし、そのあとで慰めるように肩に腕を回していた。クラス委員長とは別の小猿二匹も従えて、楽しそうに笑い合っていたのだった。  それが省吾を苛立たせた。独りよがりだろうと構わない。あの笑顔が心からのものだとするなら、もっての外だ。  葵はまだ理解していない。〝俺を怖がらせないよう、誰にも触らせないことだ〟と言ったのが、冗談ではなく、本気だということをわかっていない。 「おやおや」  隣りを歩く誠司が、省吾の苛立ちに薄ら笑いを浮かべ、わざとらしい口調で言葉を繋ぐ。 「あいつ、本当に猿どもを(はべ)らせているじゃないか?」  省吾は誠司のからかいに乗る気にもなれず、頑なに顔をむすっとさせていた。 「そんなにムカつくのなら、なんでアレの好きにさせておく?閉じ込めるなりして、さっさと言うことを聞かせればいいだろ?」 「その提案……そそられるね」  誠司が呆れたような顔を見せたのも、血に棲むものが静まっているのがわかるからだろう。これ程の激しさを表にしながら、省吾が人として落ち着いているのには、驚いているようでもある。その理由をこちらから教えることはない。省吾は誠司なら早いうちに気付くはずだと思い、顔付きを穏やかにして続けていた。 「だけど、それだと、葵を人形にするだろう?時間は掛かっても、初めから()わせたいんだ」

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