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第一部 16-2

 省吾は自分も欲情に動かされる年頃というのは理解している。意志が強過ぎるせいで流されたことのない省吾には、よくわからない感覚だったが、列車から最初に葵の姿を目にした時のように、後腐れがない快楽で満足したい気持ちを(あく)と思ったことはなかった。省吾も適当な相手と時々はそうした遊びを楽しんでいたからだが、葵とも刹那的で手軽な愛でいいというのなら、マキノの店の二階でしたような忍耐に甘んじたりはしないものだ。  省吾は葵の全てが欲しくなった。人としての葵の身も心も手に入れたいと望んでいる。それでいて、省吾の言いなりになるような人形にはしたくなかった。葵が人としての意志で、省吾だけをその目に映すのを喜びとさせたかった。  誠司は〝程々にしろ、入れあげるな〟と言っていたが、葵をものにする為に、幾ら()ぎ込んだところで意味がない。その程度で叶うのなら、とうに人として許されないことも犯している。省吾にはそれが可能であり、罪にもならない。そういう育ち方を省吾はしていた。それなら葵はどうなのか、省吾とは真逆な育ち方をしたのはわかっている。  言葉遣いが乱暴で喧嘩慣れもしているが、葵には両親の愛情を少しも疑わない育ちの良さがある。聡にはうんざりしたが、田舎での話から周囲との繋がりも同じようなものだというのは見えていた。葵は人としての正しさを身につけているということだ。  それなら、その正しさを刺激してやるしかない。あの小猿がどう変わろうと、それは小猿の意志による選択だ。正しさばかりが愛ではないと、葵に見せてやりたくなった。  省吾は顔だけ軽く後ろに向けて、メイを見遣る。葵と小猿の仲睦まじさを目にしたのだろう。省吾程ではないが、メイも不機嫌に顔を歪ませていた。 「メイ、おまえに……」 「えっ?いいの?やったっ!」  何かに八つ当たりしたげにむすっとしていたメイが、瞬時に顔をぱっと輝かせ、省吾に話の先を言わせない勢いで言葉を継ぐ。 「アレが可愛がってるから、諦めてたんだ。だけど、俺のものにしていいんだよね?」  欲しかった玩具を買ってもらえると知って大喜びする子供のようにはしゃぐメイを、コウとリクは疑わしげに眺めても、何も言わない。誠司だけが面白がって口を挟んだ。 「あんなちんちくりんな猿のどこがいい?省吾の前だと、まともに話せないような間抜けだぞ」  メイは美しく整った顔を見るからに嫌みっぽく取り澄まし、誠司の背中を睨み付けるようにして答えた。 「マザコン誠司には、言われたくなぁーい」  口調は相変わらずの子供っぽさだが、尖った目付きの恐ろしさには、狩猟民族の子孫らしい獲物を捉えた時の残忍さが浮かんでいる。 「ママが大好きな誠司には、あの子の一途な愛がわかる訳ないもん」 「なんだとぉ」  声を低めた誠司のドスの利いた口調にも、メイはべっと舌を出し、ぷいっと横を向く。子供の頃からこうした遣り取りは日常茶飯事で、いつもなら省吾も放っておく。好きなだけ言い争い、最後は誠司に殴り倒されて終わる。メイの場合は先祖の血が騒ぐのか、他より長引くことになるが、普段はそれも楽しめていた。食堂に向かっている今は、いつものようにのんびりと楽しんでいる暇はない。マザコン誠司は確かでも、当たり前過ぎて今更でしかないことで、時間を無駄には出来なかった。 「もういいだろう?」  省吾は二人の(いさか)いに割って入った。食堂に着く前に、メイに釘を刺さなくてはならない。メイが言うように、一途な愛という正しさを前にしたなら、葵も見ているしかないだろう。メイに狂わされた小猿の為に出来ることは、何もない。それを確実なものにしておかなくてはならない。 「だけど、メイにはして欲しいことがあるんだ」 「俺に?……何?」  メイが急に怯え出した。恐る恐る問い返す様子には、何を言われても省吾の言葉に従わなくてはならない身の上を(おもんぱか)っているような雰囲気がある。省吾は血に棲むもと一緒に笑いながら話を進めていた。 「あの小猿を最後まで大切にするってことだよ、それなら、おまえの好きにしていい」 「そんなの、俺はいつだって、みんな、大切にしている」  その程度のことかと、メイがほっとしたように答えていた。大切の意味を理解していないとは、省吾も言うつもりはなかった。 「それなら言い換えようかな?飽きても捨てずに最後まで持ち続ける……とね」 「うーぅん……」  少しは自分のしていることがおかしいと気付いていたのか、メイが考え込むように唸った。それも一時のことで、悩んだことも忘れたように元気に言う。 「わかった」 「出来る訳がない」  メイの子供っぽい口調に被せて、誠司が馬鹿にしたように呟いた。それを受けて、コウとリクが後ろで賭けを始めたのも聞こえている。  人の世の賭け事は、彼らには賭けにならない。好きに動かせてしまえるものを賭けたところで楽しくはないからだ。それでも彼らは賭け好きだった。刺激を求めるように身内同士の些細なことを賭けては、一喜一憂しているのだった。  省吾には葵がどう出るかにしか興味はなかったが、賭けてもいいと思えるくらいの楽しさに、口元も緩む。そこで食堂に入り、奥に人垣が出来ているのを目にした。 「おまえが着くのを見越して、始めていたな?」  省吾は誠司に頷き、騒ぎの中心に目を遣り、テーブルに手をついて体を支えている葵を見る。一人の生徒が葵に近付き、後ろから覆い被さるようにしたのには、かっと体を熱くする。葵の耳元に何事かを囁くその様子には、小猿への苛立ちとは比べものにならない程の怒りが湧き起こる。 「おい……」 「大丈夫、気にし過ぎだ」  誠司の心配は理解するが、今の省吾には疎ましいだけだった。血に棲むものも同じ意見であるのは、臍の下辺りが疼きながらも、省吾自身の意志がはっきりしているのでわかる。省吾は誠司への気遣いを捨て、ややきつい口調で後ろにいるコウに声を掛けた。 「コウ……どう?」 「抜かりなしだよ」  藤野達の仲間でもあるコウの父親は、セキュリティ会社を経営している。警備全般の物理的な領域だけでなく、仮想空間においても優秀な専門家を集め、スマホ一つで事足りるこの町では特に必要とされる分野でもあり、ここ数年で、そちらの方の需要が伸びている。会社の雇用条件に〝意識の共有が可能な者〟とあるのを知るのは、もちろん仲間内だけのことだった。 「厨房からオヤジ達に交信してるはずだから、騒ぎが始まった直後から食堂内のスマホは全て使えなくなっているよ、俺達のは使えるようにしておくってことだったけどね」  コウは休み時間に誠司から話を聞くと、クラスメートに確かめたあとすぐに、父親に連絡を入れていた。コウの父親はセキュリティ会社の経営者でありながら、仲間内の交信で済むことを人らしくスマホで連絡して来た息子に文句を言ったようだが、詳しい内容は息子に合わせてメールで返していた。

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