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第一部 16-4 (終)

 囁きを追うかのように生徒達の視線が動き出す。葵がそこに気付くと、臙脂色のネクタイで中等部とわかる一人の小柄な生徒が食堂から出て行った。そのあとを中高両方の生徒十数人が追従したが、学園の殆どの生徒達は、食堂にとどまっている。  生徒達が選んだのは葵だということだ。そうなると、臆病者と言われてしまった者には、これまでのように家柄を笠に着て、学園のトップでいるのは難しい。失墜した権威を取り戻すには、自らの力で葵と直接戦うしかないことになる。 「……なるほど」  省吾は納得し、口元を綻ばせた。喉を踏み付けていた足を下げ、その足で美貌に引き寄せられるように歩いて行く。葵がぎょっとした顔で身を引き、片手を前に出して警告するのも無視して、肩を抱き、ぐいっと胸に引き寄せる。 「ちょっ、やめろってのっ」 「言っただろう?誰にも触れさせるなと、自分でも何をするかわからなくて怖い……とね」 「はあぁ?」 「俺はね、本当に怖くてたまらなかった。あのにやけ男に何かされたらどうしようかと、気が気じゃなかった」 「……の割には、あんた、落ち着いてただろ?ゲーセンでもそうだったよな?」 「だから、怖かった」 「そんなもん、誰が信じるかっての、ホント、あんたの冗談は笑えねぇぞ」 「そう?」  省吾は葵が顔を顰めれば顰める程、笑いが込み上げ、ついには声を上げて朗らかに笑った。誠司達仲間内ではよくあることだが、学園の生徒達が目にすることはまずあり得ない。戸惑いの中にも、安堵を浮かべ、生徒達は何事もなかったかのように食事へと戻って行く。葵はそれを知らない。そういった省吾しか知らないとも言える。皮肉も何もない爽やかな笑いだとわかるからこそ、葵は顔を顰めていた。  省吾は葵を引きずるようにして、いつものテーブルへと歩き出した。後ろでメイが小猿を誘っている。葵はメイのその様子を気に掛けていたが、珍しくメイが殊勝な態度でいたせいか、別の小猿二匹へと視線を移していた。コウとリクが二匹に誘いの声を掛けている。誠司が二匹を恐ろしい形相で睨んでいたのには、葵も目付きを鋭くしたが、二匹がしれっとしているのを見て、クスッと笑って視線を外していた。 「そういやぁさぁ……」  葵は小猿三匹への彼らの扱いに満足したのだろう。ふと省吾へと視線を向け、挑発するかのように声をやんわりと引き伸ばしている。 「……俺も昨日、あんたに言ったよな?」  省吾が足を止めると、葵はニヤリとして続けた。 「二度と俺をガキみたいに引きずり回すな……ってな?」  葵の意図がどこにあるのか、それを思うと、憎らしくてたまらない。唇が赤く腫れ上がるまでキスをして、何も考えられなくしたい。意志が強過ぎて人らしい衝動を知らない省吾でも、葵に対しては湧き起こって来る。だからといって、同様の自制が利かせられる葵には、罰にもならないことなのはわかっていた。この段階で、キスをしてみたところで、葵にせせら笑われるのが落ちということだ。  葵にしても同じだろう。今の葵には、省吾を振り払えないのがわかっている。昨日の話を持ち出して、仕方なく省吾の好きにさせているというのを、隠しもしない。その上で、葵は省吾の足を止めさせたようだった。  葵は省吾に肩を抱き寄せられたままで振り向き、床に吹き飛ばした生徒を眺めている。自分が殴り倒したにもかかわらず、その眼差しには気遣いを匂わせていた。馬鹿げたことをしそうな葵を止めるには、省吾も意に染まないことをするしかない。省吾は隅で成り行きを眺めていた生徒会の役員に視線を向け、床に伸びたままでいる生徒を顎で指し、彼らに世話をさせることにした。  去年の騒ぎの時には、生徒会は省吾がかかわらないとしたように無視をした。今回は見物するという省吾に合わせて、静観していた。学園の指示があって、生徒会も『蜂谷』とは波風の立たないようにしているのだが、葵には知る(よし)もないことだ。生徒会が当然のように動いたことで、葵は床に伸びたままの生徒を気にするのをやめたようだった。  中高どちらの生徒達も、生徒会が何をしているかには興味を見せない。提供カウンターに並び直し、トレイを持って席に着き、普段通りに食事を始めている。しかし、生徒達の話題は普段とは大違いだった。一時的なスマホの不具合には触れずに、画像で確かめられないことを残念がり、目で見るしかなかったことへの驚きを大きくし、鮮烈な記憶に興奮さめやらないといったところを見せていた。画像として残されなかったことで、記憶が脚色され、神格化して行きそうな気配を秘めている。毛色は違っても、葵がこの町を継ぐ者だと認めた瞬間でもあった。  葵なら安心なのだろう。生徒達が思い思いに話すざわめきにも活気がある。彼らのうちの誰一人として床に伸びている生徒に手を差し伸べようとしないのは、そのせいだった。食堂から逃げるようにして出て行った者に価値はない。生徒会の役員が手を貸しているのも、彼らには見えていないも同然だった。  思った通り、葵が生徒達の態度に眉を(ひそ)めている。これがこの町の有り(よう)なのだ。理解するしかない。省吾はそれを教えるように、葵を引っ張って無理やりテーブルへと向かって歩き出した。葵が逆らわなかったのは、序列のトップに躍り出たことがわかっていないからだろう。 「そうだ」  省吾は葵の気持ちをこちらに向かわせようと、明るい口調でからかうように言った。 「また一つ、おまえに貸しが出来たな?」 「ああん?またなんの冗談だよ?」  葵が気のない調子で答えても、それさえ省吾には面白い。 「おまえが頼むから、あのにやけ面を許してやっただろう?」 「はあぁ?俺がいつ、あんたに頼んだ?」  やっとこちらに気持ちを向けたと思い、省吾はおかしそうに答えた。 「殿様は面倒なものだよね?俺には無理だよ、家臣に気を遣い、悪さをすれば叱ってやり、そして宥めてやらなければならないなんてさ。今の時代、そういうのをお人よしと言うんだよね?ふふっ、おまえのことだよ」 「はあぁ?殿様だぁ?俺のどこがだよっ、ホント、あんたの冗談には付き合ってらんねぇな」 「いつまでも捻くれていないで、俺がおまえに関しては、何もかも本気だと、理解して欲しいんだけどね」 「ふん、そんな胡散臭げな顔しやがって、本気もクソもあるかっての、バカ言ってんじゃねぇぞっ」  葵の憎まれ口は辛辣だが、それが可愛いと思える自分も相当捻くれていると、省吾は笑いながら思っていた。 ――第一部 終わり

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