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第二部 始まり 1
武者は供 も連れずに、軍馬を駆り、日 に照り映える山を目指して、遥か遠くまで広がる涸 れた平地を突っ切った。なだらかに続く山道を上り切ったところで、鬱蒼とした木立に阻まれ、それより先へは進めない。武者は軍馬から降り、その足で深く険しい山奥へと分け入った。
甲冑の華美な装飾に豊さを思わせるが、所々綻びているのには、惨めさが漂う。腰に差す刀も贅を凝らしたものだが、血にまみれ、本来の輝きをなくしている。武者の優れた腕前さえ、なまくらに見せていた。歩を進めるごとに、武者から富裕な煌めきと、高慢とも言える誇りを奪って行くようだった。
それは武者には許し難いことだった。生まれ持った優美さを、哀れな姿で損なわせるようなことがあってはならない。気に入らないとなったら、従者に命でもって贖 わせるのも厭 わないでいた。武勇の誉れが高く、主君の信頼も厚い武者に逆らうのは、愚か者のすることだ。誰もが平伏 し、恐れ入るのを当然と思っていた。
武者が傲岸不遜となったのも、この国の輝かしい豊さにも由来する。
他国が飢饉に見舞われた時でさえ、肥沃な土地に実りを受け、穀物蔵を満たしていた。泊 を整えたことで、異国との交易が盛んに行われ、船舶からの勝載 料も増え続けていた。領主の金蔵 には、金銀の財宝が唸っていると、もっぱらの噂だった。
噂を事実と知る隣国は、遥か昔から幾度となく戦いを仕掛けて来ている。武者の主 の治世になると、その頻度も激しくなり、国境 においては、隣国の軍勢と度重なる小競り合いが起きていた。それを武者が鬼のような働きで、蹴散らしていたのだった。
武者の横暴な振る舞いが許されたのも、偽りのない忠義によるものだった。残忍であることも、誰しもが畏怖の念を抱いて認めていた。それがここ何度かの襲撃には敗北を喫し、最終決戦が迫っているというのに、なす術がない。
武者は忸怩 たる思いに苛 まれていた。残された時間が僅かである今は、身なり如きに拘るなど、詮無 いことだとわかっている。戦況が不利になるに従い、武者への誹謗が声高に叫ばれ、主君への忠義さえ貶められている。耐え忍ぶしかないと、己に言い聞かせても、身なりの哀れさに主君への申し訳なさが重なり、恥じ入るばかりだった。
武者は獣道 を頼りに、鬱蒼とした木立の奥へと、決然とした顔付きで向かって行った。忌まわしい臭気が立ち込める中に、優美なその身を捧げ行く覚悟で、歩き進めた。
武者の望みはただ一つ。この身を鬼神の化身とし、押し寄せる大軍を追い払う力を得ることだった。
「眉唾 かもしれぬ、だが……」
隣国の侵攻に合い、最後となった砦も陥落 間近とあっては、怪しげなものであろうが縋るしかない。古くから言い伝えられて来た禁忌を犯すのも、その為だった。
山の奥深くに祠 があると言われている。それより奥は鬼の棲み処であり、人の侵入を許されてはいない。遠い昔の先人達が、鬼とのあいだで取り決めたことだと伝えられている。
当初、先人達は、光り輝く美しさと人知を超える能力に心を動かされ、神と敬い、称えた。時が移るに従い、人を惑わす邪悪な光と平穏な暮らしを乱す力に脅 かされ、鬼と恐れ、蔑むようになった。あらゆる欲望に耽り始めたのは人であり、鬼ではなかったが、その神々しさに魅了される余りに、人が狂い出したのだと決め付けた。先人達は荒廃する世を憂え、祠を建て、これより奥を禁忌としたのだった。
「鬼と棲み処を分けたのち、この地は潤い、国土も広がった。それが鬼との契りと言われている。〝我が地に入 らざれば、安寧なり〟と。さすれば、何故に隣国の侵攻を許すのかっ」
それだけではない。この山を水源とする川が涸れ始めているのだ。ここへ来る途中で見遣った涸れた平地に思いを寄せ、口惜しさに、武者の身が震えた。その時、武者は目の端にきらりと光る何かを捉えた。視線を向けると、そこには朽ち果てた祠があった。
「これが……?」
祀られた時には、壮麗としていたであろうことは、祠にしては大き過ぎるその威厳に見て取れる。それ程のものに気付けなかったのは、深遠とした木々に埋もれていたからだろう。風雨にさらされ、屋根は崩れ、格子戸は形をとどめていない。
「光は何処 より……」
武者は道を塞ぐ枯れ枝に足を取られつつも、祠へと走った。その前に立ち、叫んだ。
「鬼よ、忌む身を現したまえ」
風が吹き、空には黒い雲が走り出す。暗澹 とした空気に、武者は包まれた。木々のざわめきが妖しい囁きに思えたその時、胡乱 な何かに肌をなぶられたのを感じた。
〝我を呼びたるは、愚かなる〟
その声は武者の頭の中に響いた。恐怖が武者を襲うが、武者はその場に踏みとどまった。
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