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第二部 始まり 2 (終)

「声が……鬼か」 〝鬼とは人なる者が呼びたる名なり、我、人の身に入るは容易(たやす)きこと、そなたらの(こと)の葉、(つむ)ぐも同じなり……〟  声が離れ行くのを感じた武者は、祠へと走り寄り、声高に叫ぶ。 「我らが地、汚されたること、捨て置くかっ」 〝()れ者が()れ言〟 「人と契りたること、忘れたか、この地、守護せよ」 〝(たが)えたは人なり、祠によりて我が力、敬いたると申すなり、契りによりて結界を張りたるも、等閑(なおざり)にしたは人なり、我が力、及ばぬは必定〟 「我らが過ち、正すによりて、守護せるを願うなり、さすれば、この身、捧げん」  荒ぶる武者が身を犠牲にしても構わないと願おうが、悲痛な思いが声に届くことはない。声は沈黙したまま、この時までの武者の生き様を覗こうというのか、脳裏にその人生を蘇らせて行く。  そこには常に、敬愛する若き君主の美しい姿があった。幼くして領主となった君主への愛に溢れ、成長するにつれ、比肩する者もない気品ある美しさに胸を熱くする。すると唐突に、武者でさえ気付かないでいた思いが渦巻き出す。武者は我知らず、どす黒く邪悪な熱情に怯えた。武者がひた隠す欲望を、声は探り出していたのだった。 〝残忍なる者、悲しき肉欲、愚かなりしが、いとおかし〟  声の笑いが武者の頭に響き渡った。 〝よかろう、今一度、契ろうぞ〟  ほっとしたのも束の間、武者はその場にくずおれた。下腹部に熱を持った痛みが走る。 「な……何ぞ」 〝祠など、いらぬ、その身を(しろ)とし、血に棲まいて、(よこしま)なる願い、我がものとする、子々孫々、違わねば、繁栄を約す〟 「鬼……めがっ」 〝情けは掛けようぞ、一世に一度の戯れとし、我は血に沈みおく〟 「だが、違えれば……」 〝我、人となる印を表すなり〟 「人とは……我が子孫なるか」 〝陰あれば陽あり、陽あれば陰ある〟 「男女(なんにょ)……なるか」  頭の中に居座る声が笑ったのが、武者にはわかった。肯定か否定かを判別させない声の笑いに、武者の優美にして秀逸なる顔が醜く歪んだ。 「だが、違えねば、繁栄を約すのだな、ならば……」  武者は忠義に劣る行いとわかっていたが、欲望に屈して呟いた。 「……血の契り、受けようぞっ」  武者がそう言い放ったと同時に、臍の下辺りに、それまでとは比較にならない激痛が起こった。身悶えしそうになるが、今以上の哀れな振る舞いには我慢ならないと、耐え続けた。暫くして痛みが引き、奇妙な感覚に(いざな)われ、顔を前に向ける。面前に、光があった。  武者はその時に理解した。鬼が身のうちにいる。それが催促している。目の前の光を取り、領主の寝所へ行けと。女人(にょにん)にも勝る美貌と(うた)われる主人のもとへ向かえと。  武者は光を見詰めた。丸い器のような透けたものに覆われた光は、鬼の欠片なのだと知る。一世に一度の戯れにより、欠片を失った鬼が完璧となる。この地を守護する力が生まれ、当代の繁栄も約束される。  武者が光を手にした瞬間、荒々しい風が吹き荒れた。風は木の葉を吹き上げ、全てを()ぎ倒す勢いで人里へと下りて行った。  ――千年ののちの世に、業を煮やした鬼が、人に契りを破らせた。

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