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第二部 17-1

〝ナオ……ナオ……〟  尚嗣は自分を呼ぶ懐かしいその声に微笑んだ。年を取り、張りをなくした今の自分にはない快活さに気持ちも和む。 「君は変わらないな」  取り立てて美しい訳ではないが、爽やかで明るい笑顔の少年がそこに現れる。児島俊作(こじましゅんさく)、半世紀以上が過ぎても、決して忘れることの出来ない恋しい名前だった。 〝先輩のことをナオと呼んでいるのが知られたら、蜂谷先輩になんて言われるか……〟 〝ゴウが?〟  尚嗣も少年の頃に戻り、艶めいた容姿の自分と出会い、体まで軽く感じる。 〝それなら君のことも、シュンと呼ぶよ。それで特別なことじゃないとわかってもらえるだろう?〟  人気(ひとけ)のない食堂の片隅で待ち合わせ、ひっそりと二人だけで睦み合っていた記憶が緩やかに流れる。木造の食堂はあの当時にも年代物で、相当にガタが来ていたが、関係を隠す二人にはその薄暗さが丁度良かった。密やかで甘々の幸せな記憶は、尚嗣を微笑ませる。しかし、そのあとで必ず心温まる思いを引き裂く記憶に、微笑みも粉々にされて行く。長い年月を過ぎても、遠い昔の浅はかな間違いを、時間は少しも慰めてくれなかった。  蜂谷家の(あるじ)である剛造とは、同い年ということもあり、幼い頃から顔見知りではあった。歴代の当主に寵愛された家柄という繋がりで、互いの屋敷も遠く離れていなかったが、親しくするという付き合いはしていなかった。  屋敷町の小学校に通っていた頃も、この町の次期当主と崇められていた尚嗣を、剛造は子供ながらに煙たがっていたようだった。権威に守られる尚嗣を遠目に見つつも、自分に従う仲間とだけ遊ぶような子供だった。ナオとゴウと呼び合う仲になったのは、『鳳盟学園』の中等部に入学してからだった。  入学して間もない頃に、剛造の方から突然に声を掛けて来た。中等部の一年だというのに、体格的にも一人抜きん出た存在で、それと釣り合う洗練された優美な容姿は嫌みな程だった。剛造が恵まれた容姿を自慢していたのではない。そこにいるだけで、周囲を委縮させていただけだが、話してみると、意外と大胆で男気を感じさせたこともあり、親しくするようになった。随分経って、話し掛けて来た理由を尋ねた時、剛造は笑いながらこう答えていた。 〝そうだなぁ、成長したってことかな〟  軽快な口調で言ったあと、晴れやかに続けていた。 〝子供っぽい真似をやめただけさ、僕も大人になったということだよ〟  その頃から、ナオとゴウと呼び合うようになった。互いの名前が古めかしい上に、重苦しく感じていたからだが、そこに特別な意味があるとは思わなかった。  『鳳盟学園』は尚嗣の曾祖父が、近代的な教育の先駆として嫡子の為に建てたものだった。設立から今に至るまで、この町における名誉ある地位の象徴であり、良家の子息に限らず、最近では新興の家々の息子達までもが、こぞって入学したがる。八十人という少ない募集が、学園の価値を高めているようだった。  香月家の当主が理事長を務めるのは、学園の成り立ちからして当然のことだった。名ばかりの地位ではあったが、尚嗣も娘の駆け落ち騒ぎが起きるまでは務めていた。娘がこの町から逃げ出したのち、その地位を剛造に譲ったことに未練はない。理事もやめるつもりでいたのだが、剛造が許さなかっただけのことだ。  剛造が頑なに尚嗣を理事の席にとどめたのは、嫌がらせ以外の何物でもない。尚嗣が『鳳盟学園』に入学した当時とは、事情も大きく違っている。今の香月家に、それ程の力はない。この町の重鎮と言われようが、飾り物という扱いなのは事実だった。この町を実際に動かしているのは蜂谷家の方だが、あの頃は香月家の権威も盤石で、尚嗣は別格として扱われていた。『鳳盟学園』への入学は、そうした威光をはっきりと目に見えるものにすることでもあった。  屋敷町の小学校でも同じように扱われていたが、子供ということもあり、それなりに友達と呼べる者達はいた。『鳳盟学園』に入学したあとも、彼らとの付き合いは続いていたくらいだった。彼らの姿を見なくなったのは、剛造と親しくするようになってからだ。尚嗣の周りは、剛造とその仲間の生徒だけになっていた。  剛造が定めた特別という枠組みを、尚嗣が嫌がったところで無駄だったのだろう。剛造に逆らってまでして、尚嗣と親しくしようという者が現れるはずはない。最初から裏で何が起きていたのかを、尚嗣が知る機会はなかった。  高等部の三年生の時に、剛造が始めた軽い遊びにしても、剛造にとっては力を誇示する為のものでしかなかった。仲間内で下級生を一人選んで、その生徒に世話をさせるというもので、住む世界が違うということを、剛造はそうした遊びで学園の生徒に示そうとしていた。  剛造は女と見紛うばかりに可愛らしい一年生を選んでいた。剛造の仲間も似たり寄ったりの下級生を選んでいた。尚嗣は何かに付け特別視したがる彼らと張り合うように、これといって目立つところのない一年生の児島俊作を選んでいた。俊作の人生を狂わすことになるとも思わず、剛造への当て付けのように選んでしまったのだった。

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