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第二部 17-2

〝ナオらしいな〟  尚嗣が俊作を選んだあの時に、剛造が余裕の笑みを浮かべて言ったことだ。どうして俊作だったのか、尚嗣にも気付けなかった理由が、剛造にはわかっていたのかもしれない。その頃の学園は、剛造に弄ばれていると知りながら、誰もが女のように(しな)を作り、平然と媚びるようになっていた。 「シュンには嘘がなかったからな」  そう呟いた自分の声に、胸が締め付けられる。  あの当時は、香月家の嫡子であることは、終日、好奇の目で見られるようなものだった。気の休まる時がない日々に嫌気が差していた中で、俊作だけが肩書きも何もない自由な時間を与えてくれたのだった。  ほんの一瞬の煌めきのような日々が懐かしく、その思いが描き出す非現実的な感覚が恋しくてならない。添い遂げられるような愛ではないと、俊作にもわかっていたはずだ。開放的な現代とは時代が違う。だからこそ、濃密で秘めやかな夢に浸り、その一瞬一瞬の熱く甘美な時間を何よりも大切にし、思い出となるその日まで、隠し通すことを二人で誓った。 「それが何故あんなことに……」 〝何故だ!シュン、君が……君が何故?僕のせいなのか?〟  昼を外せば、人気(ひとけ)のない食堂は二人の密かな場所になる。激しくも甘い時間を過ごした食堂が、記憶の奥深くの闇に沈む。そこから忘れられない情景が浮かび上がり、悲憤(ひふん)の叫びに息が出来なくなる。 〝ゴウ!君はシュンに何をした!〟 〝別に大したことはしていない。現実というものを教えてやっただけさ、おまえのような小者(こもの)に本気になる馬鹿はいないとね。そのことを実際に教えてやっただけなんだが、僕になのか、ナオになのかはわからないが、腹いせのように縊死(いし)したな〟 〝なにをっ……〟  湧き上がる悲しみに嗚咽を漏らしたが、剛造の前で涙を流すことは出来ない。尚嗣は歯を食いしばってこらえた。 〝ゴウ!いいや、違う。蜂谷剛造!僕は君をこの先も絶対に許さない!〟  苦悶の叫びが瞼の裏で響き合い、意識が刺激される。はっとし、夢うつつでいたことに気付かされる。書斎の机で何とはなしに考え込んでいたあいだに、夢と現実が入り交じり、うとうとさせられたようだ。そう思いながら顔を上げると、家令の吉乃と目が合った。吉乃は机の向こうから気遣わしげに尚嗣を見詰めていた。  尚嗣は剛造との朝食会から戻ったあと、いつにも増して陰鬱になっていた。吉乃を心配させたのはわかっているが、五十年近くにわたって仕えているとしても、具体的に何があったかを知らせたことはない。吉乃の気遣いは、単に尚嗣の身を案じてのことだった。静かに寄り添ってくれることで、尚嗣には慰めとなっている。 「何かあったのか?」 「いいえ、何もごさいません。ですが、朝食会からお戻りになられましてから、お疲れのようにお見受け致します。本日のご予定に差し障りがおありではございませんか?お断りされては如何でございましょう?」 「ホテルで、春の生け花展のセレモニーがあったな?」 「はい、その後、昼食を挟みまして、立礼式(りゅうれいしき)の茶会が催されます」  政治にスポーツに芸能と、派手にニュースになるような催しを好む蜂谷家は、地域限定の小さな催しには誰も顔を出さない。尚嗣は招待客の顔触れを思い、そこに剛造の老いても優美さを失わない矍鑠(かくしゃく)とした顔がないことを確かめた。一日に二度も、剛造の居丈高ぶりを眺めさせられてはたまらないものだ。 「軽い催しだからな、気分転換になる。予定通りにしてくれて構わない」 「かしこまりました」  吉乃がほっとしたように微笑んだのが、尚嗣を苦笑させた。  子供の頃から、使用人とは親しくしないよう、父親には言われ続けていた。この町の当主としての威厳を損なうような心の乱れを、使用人に悟らせてはならない。そう口を酸っぱくして言われたものだ。父親のそうした考えに反発していた頃があったとは、今では信じられない思いだった。香月家の秘密を知らされていなかったあの頃は、尚嗣の未来もそれ程には暗くなかったということなのだろう。  吉乃はその頃の尚嗣を知らない。従者として香月家に雇われた時には、尚嗣は笑うことを忘れていた。十代半ばであった吉乃が、代わりに笑ってくれていたように思う。屈託のない笑顔に、胸の奥にひっそりと息衝く明るい笑顔を重ねていたようにも思うのだった。

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