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第二部 17-3

 尚嗣は自分の殻に閉じこもり、当時大学生だった尚嗣からすれば、子供でしかなかった吉乃にもひややかに接していたのだが、吉乃の晴れやかな笑顔は少しも揺るがなかった。家督を継いだあと、香月家の家令に就かせたのは、明るさと穏やかさで尚嗣を癒したのが理由ではない。吉乃に愛情を感じるのに、それ程の時間は掛からなかったのは確かでも、余計な詮索で信頼を損なわないと確信出来たからでもある。 「まだ何かあるのか?」  尚嗣は吉乃の微笑みに気持ちを和ませていたが、吉乃が何か言いたげな様子でいるのに気付き、眉根を寄せる。出掛けるに当たっての準備もあるだろう。それなのに悩めるような表情を見せ、机の向こうから動こうとしない。 「葵のことか?学園からまた何か言って来たのか?」 「葵様のことではありますが、学園とは関係ございません」  葵を『鳳盟学園』に編入させることに不安がなかったとは言い切れないが、やはり尚嗣には勝手知ったる学園の方が安心出来た。遠縁の者達の横槍があったことも、異例だとして問題になっていたことも知っていたが、理事長である剛造が学園側に働き掛けたことで許可が下りたのだった。  尚嗣は剛造がかかわったことを不安に思っても、一般の中学に編入し直そうとまでは思わなかった。しかし、吉乃から朝食での葵の様子を聞かされると、このまま通わせていいものなのか、考えさせられてしまった。 「蜂谷の……上の孫と?同学年の弟ではなく、兄と知り合いだというのか?」  剛造がすることには必ず理由がある。葵に同学年の弟と親しくして欲しいと思っている。その考えに、下の孫が反発しないとは限らない。学園を無断で休んだ理由が嫌がらせにあるのなら、当然、弟の方が絡んでいると思ったが、弟のことは存在さえ知らないようだと、吉乃は言った。葵が無断欠席したのは、気紛(きまぐ)れとでもいうのだろうか。心配させるようなことをしていないと言われても、気になるものだ。 「どういうことだ?」  そう呟いた時、尚嗣の脳裏には、ホテルでの『鳳盟学園』入学を祝う豪華な宴席が浮かび上がっていた。二年前の春、尚嗣も理事の一人として、蜂谷家主催のそのパーティーに招かれていたのだった。  剛造から多額の寄付を受けた学園は、理事長の孫の入学を祝うパーティーへの出席を、理事全員に促していた。尚嗣も仕方なしに出掛けて行ったが、そこでもう一人の孫、蜂谷家から出された兄の姿を見ることになった。弟の方は小学生の頃から剛造や両親に連れられて、町の式典に来ていたこともあり、見知っていた。兄の方はそういった席に顔を見せたことがなく、蜂谷家らしい美少年という噂程度にしか知らなかった。  その兄の為に、ああいったパーティーを開いたという話も聞かない。あの日のパーティーがなければ、その姿を目にする機会はなかっただろう。そこにいるだけで華やかな美を描く容姿は、若き日の剛造を思い出させた。周囲の視線を自然と引き寄せる兄の秀逸な美しさには、かつての剛造を上回る妖しさがあるとも感じていた。  兄弟の名前が省吾と優希というのは、朝食会の席で、剛造から聞かされていた。弟の優希が生まれるまでは、兄の省吾を唯一無二の繁栄を手にする者だと考えていたこともだ。剛造は男子が一人しか誕生しない因果な家系を思い、先に生まれた男子に希望を託していたのだった。  言い伝えとして残されている話は曖昧で、唯一無二の繁栄を示す〝印〟が何かもはっきりしていない。蜂谷家の子供であるにもかかわらず、生まれた時からずっと省吾の立場が家族の中で微妙であったのは、省吾には〝印〟らしきものが何もなかったからだった。  三年後に優希が生まれると、臍の下辺りにあった痣が、『血の契り』と呼ばれた忌まわしい習わしにおいて現れるものと同じ形であった為に、それを〝印〟と剛造は信じた。そうなると兄である省吾の存在は、蜂谷家に混乱を招き兼ねない。剛造は蜂谷の名を第一に考え、婚前に宿った男子を数に入れないことにした。省吾を家族から引き離し、母親の兄である藤野という得体の知れない男に預けてしまった。  尚嗣は剛造から何を聞かされようが、『血の契り』にまつわる忌まわしい話に興味はなかった。初めて目にした少年が、家族から見捨てられた不憫な子なのだと、その思いから省吾を眺めていたに過ぎなかった。  本当に秀でた容姿に恵まれた美しい少年だと思った。美貌だけを比較すれば葵の方が遥かに勝るだろうが、尚嗣にとって葵の美しさは身内を偲ぶよすがにしかならない。葵の容姿が父親のそれに生き写しであっても、目、鼻、口、耳の形に手の動き、そういったものに、妻を、娘を、時には自分をも映し、家族の繋がりを思うだけのものでしかなかった。  省吾にはそういったものはない。純粋にその美を堪能させられた。枯れたはずの色欲を思い起こさせる官能美は見事なものだった。パーティーに出席していた者達の思いが、それ以上のものであったのは確かだろう。艶麗(えんれい)とした輝きに惑わされた視線が、若々しい逞しさを持ち始めた省吾のすらりとした体にまつわり付いているのが見えるようだった。  省吾が大人達の視線に気付いていたのはわかっていた。そこには、引き取られた先の伯父である藤野に、無理やり連れて来られたのも感じさせた。学園の制服姿は麗しいものだったが、省吾は秀麗な顔に皮肉な笑いをうっすらと浮かべ、ズボンのポケットに片手を入れて、太々(ふてぶて)しい態度で立っていたのだ。  蜂谷を名乗っていようが、蜂谷を出された省吾の立場は弱い。身を立てようとしても、金だけでは開かない扉は幾らでもある。あれ程の優美さに恵まれたなら、剛造に逆らう気もないのに甘言(かんげん)(ろう)して庇護を申し出ようとする者が現れてもおかしくない。十五、六の少年が、既にそうした視線の意味を知り、小馬鹿にしていたのだった。

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