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第二部 17-4 (終)

 どういった育ち方をすれば、こうまで早熟な少年になるのだろう。あの時、尚嗣は省吾の母親の兄であり、剛造が見出(みいだ)した藤野という男のことを思っていた。  噂だけなら、尚嗣の耳にも届いている。金儲けに天賦の才があり、出自の如何わしさを補って余りある男だと評判だった。親との縁が薄く、妹である省吾の母親とは年が離れているせいか、藤野が親に代わって妹を育てたという話も聞いている。尚嗣は藤野の妹が『淑芳女学園(しゅくほうじょがくえん)』の卒業生で、娘の恵理子の二学年先輩というのも知っていた。  省吾が母親の腹に宿っているとわかった時、剛造が息子と結婚させたのも、『淑芳女学園』の卒業生であることの意味を理解していたからだった。だからといって、義理の息子になった藤野の扱いが変わることはなかった。今も昔も、剛造が個人的に呼び付けては、使用人のように仕事を命じている。  藤野が剛造に逆らったことは、一度としてない。蜂谷家の金蔵を満たす男とも言われ、底なしと噂されるその財力で、学園の老朽化した食堂の建て替え資金を寄付した者としても記憶していた。  尚嗣が二度と足を踏み入れまいと決めた食堂が消えてなくなったのは嬉しくもあったが、完成披露の式典には体調を理由に欠席していた。幾ら見た目が変わろうが、その場所に近付くことは出来ない。その為に、尚嗣は藤野と直接に知り合う機会を逃していた。  省吾はそうした胡散臭い伯父の隣で、金を手にして成り上がった男にも劣らない落ち着きを見せていた。幼い時期に蜂谷家を出されたことで、こうした集まりに気後れしそうな省吾こそが、パーティーの主役であるとした方がしっくり来るような図太さでもあった。  それに比べて本来の主役である優希の方は、長身揃いの家族に挟まれて、小柄な体がより小さく見えていた。派手さのない物静かな顔立ちだったが、初々しさの残る子供らしい可愛さは十分にあった。残念なのは、省吾がいたせいで、蜂谷家の子にしては見劣りすると、招待客に思われてしまったことだ。少し前までは小学生であったのだから、気にすることはないのだが、優希は必死で背伸びをしているようにも見えた。それが哀れだったが、家族の形とするのなら、滑稽でもあると、尚嗣はそう思って眺めていた。  尚嗣が他の者達とは違う思いで見ていたからかもしれない。省吾がふと気にするように、尚嗣の方へと顔を動かした。自分に向けられる視線の全てを無視していた省吾が、尚嗣にだけ、興味を返したことになる。  皮肉な笑いではなく、微笑んだように感じたのは気のせいだと思うが、あの時の笑みを記憶から消すことが出来ないでいる。尚嗣は逃れられない運命への苦悩を呼び覚ます熱を、その笑いに感じたのだった。  有り得ないことだと、省吾から目を逸らしたが、視線は再び省吾を求めていた。探し当てた時に見たものは、一人先にパーティーを抜け出そうとする雅やかな後ろ姿だった。剛造よりも立ち居振る舞いが物柔らかである分、尚嗣は省吾の後ろ姿に背筋を寒くしたのを覚えている。藤野に無理やりに連れて来られたのではない。目的があって、自らの意志で来たことが、その時に気付いた。  その後、省吾がどう成長したかは見ていないが、あれ程の優美さが翳ることはない。一層妖しくなっていることだろう。その少年と葵が知り合いだというのだ。  そのことを剛造は知らない。知っていれば、今朝の朝食会の様子も違ったものになっただろう。剛造はこの町の繁栄の為、葵にも優希を支えて欲しいと頼んで来た。陰鬱な気分で戻って来たのも、剛造の身勝手な頼み事を聞かされたからだった。  尚嗣は両親を亡くして間もない葵に、今すぐ話すことではないと答えた。剛造の無神経さに苛立ちながらも、結論を先延ばしにすることで、その場を逃れた。  葵が成人するまでの数年を、無事に過ごさせるのが、人生最後の務めと思っている。その日が来たなら、葵にはこの町から立ち去るよう言うつもりでいる。剛造に身勝手な頼み事をされた上に、その孫の省吾と知り合いだというのでは、葵と距離を置いている意味がない。  葵が生まれた日、それを最後に恵理子からの連絡はなかったが、最後の電話で、恵理子は葵に〝印〟のようなものは何もないと言っていた。ほくろも痣もない、綺麗な赤ちゃんだと、嬉しそうに話していた。連絡が途絶えても、山間の村で平穏に暮らしていたのは知っていた。結婚を反対し、子供を持たないよう諭した身としては、人並みに孫を得られたことが信じられない。事故が起きて、娘の死に怯え、咄嗟に葵を引き取ったが、本当はこの町に葵の存在を知られたくはなかった。  恵理子の出奔(しゅつぽん)で、香月家は終わりを告げた。印を持つ者を得た蜂谷家が、その地位に取って代わったのだ。尚嗣の代で、香月家が断絶することは、とうの昔に受け入れていた。  剛造が歴史的価値のある広大な屋敷を欲しがるのは、『血の契り』で知った尚嗣との関係にある。(ささ)やかな抵抗でしかないのだが、香月家の資産は財団を作り、そちらに全て移転させる予定でいる。個人的な資産は、尚嗣の死後に葵に渡るよう遺言書を作成させてある。葵を篠原のままにしたのは、遠縁の者達に変に邪推させない為だった。  『血の契り』という忌まわしい習わしは、恵理子が生まれた時に終わった。この町も因習に囚われず、自らの力で発展させる時期に来ているということだ。それを蜂谷家が先導することにも異存はない。全てはこの町の住人が決めればいいことだと思っている。 「尚嗣様……」  吉乃の遠慮がちな呼び掛けに、尚嗣の意識が向かう。 「僭越(せんえつ)ではございますが、葵様ときちんとお話をされた方がよろしいように思います」 「それは……出来ない」  尚嗣が愛した者は、(ことごと)く皆が早死にしている。俊作に始まり、妻も、娘にも先立たれている。その上葵にまで死なれるようなことになったら、耐えられそうにもない。愛する思いを表にせず、冷たく接することで葵を守れる。その考えを変えるつもりはなかった。

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