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第二部 18-1
剛造は秘書からの連絡を受けたあとも、すんなり来ようとしない息子に腹が立ってならなかった。その勢いで、透かし彫りの入ったアーム付きの重厚な椅子を後ろに引き、体を斜めにして足を組み、曾祖父の代から使い込まれたケヤキ材のアンティークデスクに片腕を載せる。無意識とはいえ、指先で机の表面をつつき始めた自分に気付くと、腹立たしさも増して行く。
曾祖父が金に飽 かせて作らせた書斎は、異国情緒に溢れていた。書斎の為だけに別棟を建てた程で、時代が移っても、そこはかとない風格を漂わせている。祖父も父親もこの書斎を好み、三代にわたって部屋全体に男らしい革と煙草の匂いを染み込ませていた。
男達の厳めしい歴史に剛造も加わり、普段なら、何が起ころうとも、書斎に漂うこの匂いに慰められ、するべきこともはっきりと見えて来る。しかし、余りに長い時間を無駄にしたと気付いたばかりの今は、何をどうすべきかの答えを見付け出すのは難しい。
剛造は不甲斐ない自分にも腹が立ち、椅子から立ち上がった。背後の窓には、広大な屋敷を巡る回遊式 庭園の一部が絵画のように映し出されているが、それには目もくれず、闇雲 に右に左にと歩き回った。そうしたところで、時間が巻き戻され、正しい選択による今が現れるはずはない。馬鹿なことをしていると思う前に、大きな間違いを犯したのだと、認めるしかないことを思っていた。
「成長するに従い、兄弟に器の違いを感じてはいたが、あれには印がなかったではないか」
剛造は息子を待つ身に苛立ちながら、少し前に聞かされた報告を思った。学園の食堂で何が起きたかを知らされ、蜂谷家の跡継ぎが見せた情けなさに、不愉快になるばかりだった。諦めたように机に向かい、椅子に座る。深い溜め息と共に、ふと思い浮かんだのは、今朝の朝食会での尚嗣の顔だった。この書斎で尚嗣のことを思うたびに、自分にしかわからない笑いに、剛造の口元は綻びる。お陰で、苛立ちも静まったような気がした。
「三か月ぶりか……いや、それ以上になるな」
尚嗣の娘夫婦の事故がなければ、一月 程前に顔を合わせる予定だった。その時に、事故によってこの町で暮らすことになった孫の存在を問い質すつもりでいた。否定しようが証拠の書類は揃えてある。事故が起きたことで手間が省けたとも言えるが、何故この時なのかと、タイミングの良さに懸念を抱きもした。剛造は尚嗣が財産を整理し始めているのを知っていた。
尚嗣の金の動きは常に監視している。財産の整理とは別に、昔からおかしな金の動きがあったのもわかっている。金額としては少なく、剛造は気にしていなかったが、余りに長い年月続けていることに疑問を持ち、去年になって詳しく調べてみようと思った。
最初、剛造は中央にある小さな会社への資金提供を、些末 なことだと気にしなかった。小さな会社が、息子の自殺でこの町を去った親のものだとわかった時は、尚嗣らしい贖罪だと納得したくらいだった。自殺した息子の兄の代になっても続けていることには、疑問を感じた。資金提供が自殺した息子への負い目だとしても、気に掛かった。書類を眺め直し、二十年程前から僅かずつ金額が増えているのに気付き、調べてみることにした。
尚嗣との個人的なことに、息子はかかわらせない。面倒事を処理させる藤野にも、仕事でなければ何一つさせたことはない。中央に出掛けたついでに、剛造が個人的に所有する確かな筋に見付けさせた調査会社に依頼し、金の流れを確かめさせている。その報告書は棚の奥深くにしまってあるが、そこに書かれてあることは頭の中に全て入っている。
その小さな会社を通して、尚嗣の金が山間 の村に流れていたとは思わなかった。貧しかった村が最新の農業施設の誘致により、この十数年で見違えるくらいに裕福になっている。それは尚嗣の娘が駆け落ちした一年後から始まっていた。
こうした村では余所 者は目立つものだ。調査会社もそこを気にしたのだろう。報告書に添えてあった画像は乱れていたが、男と女、その二人の子供の様子を知るには十分だった。
「あんなにも美しい子だとはな。父親に瓜二つと言えるが、それ以上かもしれない。だが、私の好みとは違う。ナオのような気高さがあれには足りない」
こちらから誘わなければ、尚嗣は決して会おうとはしないが、気品ある美しさは、如何なる思いがあっても、剛造の頭には無理なく浮かび上がる。年齢を思えば、美しいという表現は似合わないのだろうが、若い頃のような艶めきは失われても、生まれ持った尚嗣の優れた美の輝きは、今も剛造を震わせ、楽しませる。
屋敷町の小学校に通っていた当時は、その美に惹かれる自分が認められなかった。香月家の嫡子だからと尊大に構えているようにしか見えず、超然とした態度に反感を覚えていた。尚嗣の美しさを女々しいものと馬鹿にして、どういった意地悪をしてやろうかと考えながら、仲間と一緒に遠巻きにして眺めていた。この町の領主の嫡子に手は出せず、見ていることしか出来ない自分に悶々としていたのだった。
それが『鳳盟学園』の中等部に入学して間もない頃に、腹立たしいその思いに答えが出される出来事があった。立ち聞きしたというのが正しいが、尚嗣に感じていたものを遠ざけようとしていた自分に、向き合う自信を持たせてくれたのは確かだった。
剛造がほんの子供の時から、不思議に思っていたことだ。香月家と蜂谷家の密接な繋がりの割に、個人としては、尚嗣と剛造の父親は互いに忌み嫌っているように見えていたからだ。二人が子供の頃は、それは仲が良かったと、誰もがそう言っては、大人になってからの隔 てがましさに首を傾げていたこともだ。
両家共に当主は早世 する場合が多い。理由は『血の契り』にあるのかもしれないが、剛造も、それに尚嗣も未だ健在だ。一概には言えないことだが、父親達の場合は、それぞれが早くに家督を継いでいた。当主になり、何くれとなく顔を合わせるようになっても、二人の様子は変わらず、二人に何があったのかわからないまま、それでいて、朝食会のように二人だけで会う時は、いつもと雰囲気が違って見えた。
あの日は蜂谷家で何かの集まりがあったように記憶している。どういった理由で集まったのかも忘れてしまったが、剛造は大人の男への憧れで、階下の広間をこっそりと覗きに行ったのだった。
曾祖父は書斎の為だけに別棟を建てたが、付随するものとして、廊下を挟んで、町の名士の集まりにと、広間を作らせていた。二階には、洒落者と評判だった曾祖父の好みで、洋風に設 えた嫡子の部屋を作っていた。祖父も父親もその部屋で育ち、当時は剛造の部屋になっていた。広間を覗きに行こうとしたのも、階下のざわめきを気にしたからだった。
剛造は忍び足で階段を下り、廊下を進んだ。広間に近付こうと、書斎のドアに差し掛かった時、その声を聞いた。人に聞かれないよう静かに叫んでいた声は、成長したあとの尚嗣に似ていると、今なら気付くことだ。あの時は驚きで、はっとして立ち止まっていた。
〝あの一度だけと言ったはずだ!〟
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