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第二部 18-2

 その場にいたもう一人の男を、書斎の(あるじ)であった剛造の父親を、押し退けようとする冷たい話し方も、どことなく尚嗣に似ていたように思う。 〝この町の為、歴代の嫡子に課せられた役目でしかない。息子にも、その日が来れば、言い聞かせるつもりでいる。君にしても、義務でしたことに、意味はないとわかっているはずだ〟 〝本心からそう言えるのか?〟  そう問い掛けた父親の笑いを含んだ口調が、剛造には忘れられない。 〝あれは愛ではない……〟  尚嗣の父親の嘆きに沈む声が、今も耳に残っている。 〝……君もわかっているだろう?〟 〝だから?どうだと?〟  父親のからかうような物言いはひんやりして、剛造をぞくりとさせた。抵抗する衣擦れの音が(はかな)く響き、二人の抑えた息遣いが焦らすように続いた。父親の甘い声音に驚き、睦事のような微かな囁きに耳を澄ました時、書斎の物音がぴたりとやんだ。ドアの向こうにいるのを悟られたのだろうかと怯えた。  剛造は階下に下りた理由も忘れて、部屋に駆け戻った。自室のドアにもたれて、階下のざわめきに何も変わりないのを耳で探った。ほっと息を吐いたと同時に笑いが込み上げた。剛造は尚嗣に感じていたものが何かを理解したのだった。 〝あれは僕のものだ〟 「あれは私のものだ」  少年らしい瑞々しさに、年寄りらしい(しわが)れ声が、記憶の中で重なり合った。  その日から暫くして、剛造は自分の方から尚嗣に声を掛けた。あの頃はまだ尚嗣にも親しくする仲間が何人かいた。小学校からの学友で、親から香月家の嫡子を守るよう言われていた者達だが、尚嗣を自分のものにすると決めたからには、彼らを側には置いておけない。  剛造は蜂谷の名を使い、その生徒達を一人、また一人と追い払い、尚嗣を着実に自分の手の中に囲い込んで行った。それが児島俊作という雑魚(ざこ)に邪魔をされるとは思わなかった。少し脅せば逃げ出すだろうと思ったのに、俊作は意地汚く尚嗣に取り入り、離れようとはしなかった。 〝蜂谷先輩には関係ない!僕とナオの約束なんだ!〟 〝約束だと?僕の知らないところで、勝手な真似をするんじゃない!〟  ナオと呼ぶことも、それ以上に、自分のものを掠め取られたようで許せなかった。  高等部の三年生の時に、下級生に世話をさせたのは、何事も好きに出来るその地位を意識し過ぎて、年々ガードを固くして行った尚嗣の殻を破らせる為の遊びでしかなかった。女のように可愛い顔をした一年生を選んだのも、尚嗣にはいい刺激になると思ってのことだった。尚嗣に比べれば(かす)でしかない生徒だったが、尚嗣の気を引くには十分だった。  尚嗣は心の奥底では、剛造を恐れていたのだろう。取り立てて目立つところのない俊作を選んだことでも、剛造にはわかった。怖がる必要のないことだと、あと少しだけ、本当の思いに気付くまでの時間を与えてやろうと思った。その隙に、俊作が現れた。無理にも自分のものにしておけば、俊作に盗み取られるようなことにはならなかった。  許せなかった。罰しなくてはならないという強い意志で、下衆(げす)なその身に立場というものを思い知らせてやった。首を(くく)るとは思わなかったが、邪魔者は自ら消え失せてくれたことになる。 「だが、あいつは死したあとも、私から尚嗣を奪い続けている」  どう尚嗣を囲い込んでも、剛造の手に尚嗣が落ちることはない。それでも『血の契り』があったからこそ、半世紀以上もの長いあいだ、尚嗣への執着心を保っていられる。父親を狂わしたように、あの一度の行為が、自分をも狂わし続けていると剛造は思う。 〝僕は君をこの先も絶対に許さない!〟 「だから?どうだと?」  尚嗣の心をも殺すような叫びに、剛造は答えた。自分自身の声が、ドアの向こうで聞いた父親のものに似ていると感じた。 「ナオ……父ではないが、私も同じ気持ちだよ、だが……」  町ごと尚嗣を手に入れようとしたが、愚かな間違いのせいで無駄になりそうな予感がしている。しかし、やめる訳には行かない。そう思ったその時、ドアをノックする音を耳にし、剛造は気持ちを切り替えた。思い出を胸の奥深くに隠して、穏やかに声を返した。 「入りなさい」  瞬間、剛造はドアを開けて中に入った息子の色男ぶりに、戸惑い気味な笑いを浮かべた。  洒落者の曾祖父は、時代の変遷に当たり、装いの変化にも敏感だった。衣服を改める為、いち早く海外に職人を修行に出させたのだ。帰国後に開かせた店は、現在では老舗の紳士服の仕立屋として中央にまで名を馳せている。剛造もその店の会員であり、初めて息子を連れて行ったのも剛造だった。その店のフルオーダースーツをすらりと着こなす優美さには、剛造と省吾を繋ぐ血族の証しが紛れもなく現れている。 「弘人(ひろと)……」  年寄りでも少年でもなく、その中間を生きる大人の男らしい色香を存分に匂わせる息子を、剛造は皮肉めいた口調で呼んだ。挨拶もないままに、ナラ材の味わい深いアンティークのソファベンチにゆったりと腰掛ける息子を眺め、勿体ぶった口調で続けた。 「知っていて、私に知らせなかったのか?」  言葉を飾ろうともせずに、いきなり本題に入った剛造に、弘人が笑みを返した。父親の内心の苛立ちが、息子にはわかっているようだった。 「僕は昨日帰って来たばかりですよ、何が言いたいのか、さっぱりわかりませんね」 「父親を愚弄する気か?」 「滅相もない、ただ、こうして僕を呼び付けた理由をお聞きしたいだけです」  弘人の飄然(ひょうぜん)とした態度には、我が息子ながら恐れ入る。去年の醜悪な騒ぎ以来、優希には目を光らせていたのだが、飽くまでも(とぼ)けるつもりでいるのなら、それはそれで構わない。剛造も弘人に合わせて表情を緩めた。 「優希のことだ」 「ああ……」  剛造に醜悪な騒ぎを揉み消すよう頼んだのは、弘人だった。省吾はたった三年でも、蜂谷の家にいるあいだは剛造が育てたようなものだったが、優希は違う。息子夫婦の手の中で可愛がられて育っている。剛造がかかわらないようにしたせいか、弘人にも手に負えない子供になっているようだった。  去年の騒ぎは弘人から聞かされたことだ。二度としないと誓わせたという話を信じ、穏便に終わらせてやったが、剛造には〝印〟のことが頭にあったからに過ぎない。弘人がふっと笑い声を漏らして余裕を見せたのは、あの時、優希の為と、苦もなく処理した剛造を思ったからだろう。 「お父さん、あなたのことですから、もうご存知でしょうね。昨夜、行き付けのクラブで藤野に会いましてね、海外に視察に出ているあいだにあったことを、色々と聞きましたよ」  何が言いたいのかは、剛造には簡単にわかる。弘人は藤野と会った話にかこつけて、尚嗣の孫のことを当て(こす)っていた。

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