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第二部 18-3

 弘人と藤野が会員制の紳士クラブで親しく話していたことは、昨夜のうちに剛造の耳にも届いていた。藤野は何も言って来ないが、藤野から声を掛けることはないとわかっている。弘人に誘われてどう思ったかは、推して知るべしことだが、藤野は弘人を相手に、にこやかにしていたという報告だった。  藤野は使える男だが、言いなりだと思って甘く見ない方がいい。剛造はそのことを何度か弘人に教えようとしたが、弘人は聞く耳を持たないでいる。親との縁が薄い藤野を、剛造が息子同然に世話したことが、弘人の憎悪をかき立てた。藤野の妹に手を出したのも、そこら辺りが理由のようだった。  弘人は藤野のことを、金儲けに異様な才能があるだけの下賤(げせん)な者と思っている。今も藤野をそれと見せるように、有りもしない糸屑を膝から払い除け、自分の考えを披露することしか頭にない。 「香月の孫の編入を許したのは、お父さん、あなただと藤野から聞きました。あなたが学園に働き掛けた……とね。それで学園で何か問題が起きたというのなら、あなたがしたことが悪かったからだとは思いませんか?優希だけに責任を負わせるのは、かわいそうですよ、ですが……」  弘人は息を継ぐように言葉を切り、慎重な物言いで続けた。 「……今回に限っては、あの子は何もしていない。中等部の生徒が食堂で転んだだけのことです。あばらにひびが入ったのは、運が悪かっただけですよ」 「ほう?そういうことにしたのか?仲間を見捨て、負け犬のように、すごすごと逃げ出したのを?」  剛造は腹を立てる気力も失せ、軽い口調で笑うように答えた。 「だが、食堂には全生徒がいたそうじゃないか、蜂谷の跡継ぎらしからぬ間抜けぶりを、どう取り繕うつもりなのだ?私は優希の為に、もう何もする気はないぞ」  その言葉の意味を正しく理解したかを確かめようと、剛造は弘人を眺めた。弘人の顔付きが変わったのに満足し、同時に優希が生まれた日のことを思っていた。  優希が生まれてすぐに、省吾を藤野に預けると知らせた時、弘人は文句一つ言わずに静かに頷いた。男子が一人しか誕生しない蜂谷家では、未だかつて一度も跡目(あとめ)を誰にするかで揉めたことはない。先々を考え、弘人の不徳が原因の省吾を蜂谷家から出すと伝えた時にも、笑って頷いていた。弘人は省吾から蜂谷の名を外し、正式に養子に出せと言った程だった。  藤野に預けようが、省吾が剛造の孫であるのは変わりない。それで省吾を蜂谷のままにして藤野に渡した。大切なのは〝印〟だ。あの時の剛造には、それしかなかった。  息子夫婦がもう一人子供をもうけた理由はわかっている。省吾は生まれた時から剛造のものだったが、そもそも弘人が省吾を顧みなかったせいでもある。その上で、剛造が幼い省吾を書斎に招き入れたと知ると、赤ん坊に毛の生えたような省吾を憎み始めた。省吾とは別に、思い通りに出来る子供が欲しいと思ったようだった。  剛造は弘人に『血の契り』にまつわる秘密を何も教えていない。『血の契り』が行われるその時まで、一切の説明をしない決まりであったのだから、弘人に知る機会がなくて当然だった。弘人は何も知らないままに、婚約も結婚も、何もかもが勝手に決められたと腹を立てていた。省吾のことも、()ろせば済む話を、無理やり押し付けられたと思っていたのだった。  優希は臍の下辺りに、『血の契り』で現れる〝印〟に似た痣を持って生まれて来た。偶然とはいえ、弘人には思う壺となった訳だ。省吾を藤野に預けると伝えた時、これも剛造の身勝手さだと、内心では馬鹿にしていたようだった。  弘人は優希を剛造から引き離した。省吾の場合と違って、その手で育てた。広い敷地の一角に近代的な設備を備えた平屋を建て、親子三人でそちらに移り住んでいる。剛造は弘人のそうした遣り方を、どうとも思わなかった。大切なのは〝印〟であり、それが側にいれば良かったからだが、今になって事情が変わった。  印を持つ者でないのなら、優希には価値がないことになる。省吾を追い払ったのと同じ理由だが、ありがたいことに、優希には省吾の時にあった多少の感傷さえない。それが誤りであったなら、正せばいいことだと、冷たく言い放つのにも迷いは起きなかった。  弘人には理解出来ないことだ。省吾を捨ててまでして跡継ぎにした優希を、いともあっさり切ったことが信じられないようだった。何か裏があると感じたとしても、おかしくはない。ソファベンチからすっと立ち上がり、つんと澄ましてドアへと向かうのも、わかる気がする。 「まだ話は終わっていないぞ」 「優希のことでしたら、もう話は済みました。何も起きていないことで、騒ぎ立てるつもりですか?私はこれでも忙しい身なのですよ、ここに来る為に、予定していた会合をキャンセルしたくらいですからね」  曾祖父から剛造までは、この書斎が蜂谷家のあらゆる取引の中心に位置していたが、弘人に任せてからは、書斎は剛造の個人的な場所と言われるようになった。弘人は駅前の一等地に聳え立つ高層ビルの最上階にオフィスを構え、仕事と家庭を区別するかのように、毎朝、真面目に駅前のビルに出向いている。  弘人が町全体を見渡せるガラス張りのオフィスを好むのは、新たな活気を呼び込もうと、様変(さまが)わりしつつある町の様子が気に入っているからだろう。この町は先の大戦の戦禍を(まぬが)れ、古くからの建物を数多く残しているが、弘人にすれば、曾祖父から受け継ぐ書斎が疎ましさの最たるものと言えるのだった。  剛造には取引の報告を定期的に伝えることになっているが、それも秘書の仕事にして、書斎には寄り付こうとしない。剛造から直接呼ばれた時だけ、仕方なしに書斎に出向いて来る。剛造を嫌っているというのではない。単にこの書斎の厳めしい古さが、弘人の感性に合わないだけだ。県外からの移住が増えたのも、弘人が進めている開発計画の一環だった。 「駅裏の立退きの件です……」  この町に古くから根付いた人の匂いもまた、弘人には古い町並み同様に気に食わない。 「……昨日、車で通り掛かった時に目にしましたからね、工期の遅れがどう影響するか、専門家を交えて金融機関とも話し合う予定でした。お父さんなら、藤野に任せておけばいい……そう言いそうですがね」 「当たり前だ。あそこは藤野の地元だぞ。それに、あの土地は香月の個人所有だ、勝手に進めたところで……」  剛造の名代(みょうだい)として再開発の企業組織に藤野をかかわらせたことも、弘人には許し難いことだった。剛造はそれを承知で言い掛けた言葉に、不意に胸の奥深くに追い遣った記憶の断片が動き出すのを感じた。  弘人が藤野に拘るのはわかるが、それとは違う何かが剛造の記憶に引っ掛かる。尚嗣と藤野には直接的な繋がりがないはずだが、何かが引っ掛かってならない。尚嗣でないとするなら、何が藤野と繋がるのか、それを手繰(たぐ)り寄せようとする余り、剛造の口調はどこかぼんやりしたものになっていた。 「……そうだな、任せておけ、藤野なら何事もうまくやる」  その言い方が気に入らなかったのだろう。弘人はつと振り向き、苛立つように答えていた。 「お父さんは藤野に肩入れし過ぎている。最近、お父さんのことを会長と呼んでいるそうじゃないですか、そうやって、あなたに媚を売っているんです。あれはそういう男だ。省吾に伯父と呼ばせているのを見てもわかる。優希が馬鹿なことばかりするのも、藤野に丸め込まれたに違いない省吾を気にするからですよ。それもあなたが、蜂谷のままで省吾を藤野に預けたせいだと言えなくもない」 「会長など、ただの呼び名だ、気にする程のことではない。それに藤野が伯父だというのは間違いではないぞ、母親の兄、おまえの嫁の実兄なのだからな」 「麻美(あさみ)です。藤野の妹の名前は、麻美というんです。僕と同様、あなたに人生を好き勝手された女の名前くらい、きちんと言ってやってはどうです?」  弘人はくっと笑って、楽しそうに続けた。 「僕にしても偉そうなことは言えませんがね。省吾が腹にいるとわかり、強制的に結婚させられた時には、お互い、憎み合っていましたから……」  弘人は理由があって笑ったようだ。嫁の麻美を愛おしむように、それでいて弄ぶような口調で話を繋げる。 「……ですが、なんと言いますか、一緒に暮らしてみて気付いたんです、二人は同類だとね」

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