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第二部 19-1

「尚嗣様、あちらにお客様がお待ちでございます」  春の生け花展のセレモニーを終えてマンションに戻った尚嗣の耳に、吉乃の穏やかな声が静かに響いた。吉乃はいつものように尚嗣の世話をハイヤーの運転手に任せ、先にエントランスホールへと向かい、コンシェルジュに留守のあいだのことを聞きに行ったのだった。 「客……?」  尚嗣は最上階に向かう直通のエレベーターへと緩やかに歩いていた。その途中で迎えるようにして立っていた吉乃が、広々としたホールに響かないよう声を落としたことを奇妙に思い、足を止める。  最近は人が訪ねて来ることは余りないが、それでも事前に吉乃に連絡が入った場合には会うことにしている。約束もなしに訪ねて来て、エントランスホールのソファで待つような客を相手にすることはまずない。尚嗣は微かな驚きを持って聞き返していたのだった。 「私にか?」 「はい、コンシェルジュからも警備員を呼ぶべきかと尋ねられましたが……」  吉乃は客の名前を聞き、尚嗣の指示を仰ぐと、そう答えたと続けた。尚嗣の判断によっては、どうなるかわからない。その為に、エレベーターへと向かう尚嗣をひっそりと待ち、客に聞かれないよう声を小さくして伝えたのだった。 「誰が……?」 「鶴木又吉(つるぎまたきち)様です」 「鶴木……だと?」  尚嗣は振り返るようにして、吉乃が指したソファに目を向ける。そこに見たものは、恰幅のいい初老の男だった。男はソファに沈み込むようにして座り、コンシェルジュから出されたコーヒーを、ちびりちびりと飲んでいた。  貫禄があり、それなりの風采をしているが、肉付きのいい体を丸めてコーヒーを少しずつ口へと運ぶ仕草がどこか滑稽で、笑いを誘う。若い頃は中々のハンサムだったのが見受けられても、年齢と共に増えた体重に、その面影も僅かなものになっている。そのせいだろう。優しげで人好きのする顔立ちは福々しく、コンシェルジュが追い払う前に吉乃に確認しようとしたのも頷ける。  鶴木又吉、二十年近く前に一度会っただけだが、尚嗣がその名前を忘れることはない。今よりは痩せていたように思うが、誇り高くあっても高慢ではないその包容力ある容姿も覚えている。くたびれたスーツにノーネクタイは相変わらずで、外見には少しも拘らないところも変わっていない。山間(やまあい)の村で生まれ育った自分を田舎者と笑い飛ばすような豪傑(ごうけつ)だが、濁りのない目に浮かばせる知性に偽りはなかった。 「待たせたのか?」 「三十分程前に、お出でになられたそうです」  尚嗣は頷き、そのまますぐに又吉へと足を向けた。又吉も尚嗣の緩やかに響く足音に気付いたのだろう。ふと顔を上げ、そこに尚嗣の姿を確かめると、満面の笑みで応えていた。又吉の太い指には、ままごと遊びのように見えるカップをソーサに戻し、大きな体を重たそうに持ち上げ、ゆるゆると立ち上がっている。 「香月さん、突然に来てしまって申し訳ない」  又吉は娘の恵理子が辿り着いた山間の村の村長だった。その村への資金提供は、児島俊作の両親を通して行われている。この町の者達に、恵理子との繋がりを気付かせない為には、俊作の死後に、中央へと住まいを移した児島の家を頼るのが最善の方法に思えたのだった。  俊作の命日には必ず墓前に花を手向(たむ)けていた縁で、俊作の両親とは人知れず親しくしていた。自殺の原因が尚嗣にあると知れば、そうした付き合いも出来なかっただろう。香月家の嫡子が気に掛けてくれたことを喜んでいる両親に、どうしても真実を告げる勇気が持てなかった。俊作は思春期に有りがちな不安定な精神状態で、衝動的に自殺したと思われている。  俊作を追い詰めたのが剛造だとしても、原因を作ったのは尚嗣にある。その事実と向き合うことは、俊作の死を汚すことに思えてならない。尚嗣に出来ることは、剛造を責めることだけだった。  尚嗣は家督を継ぐとすぐに、剛造と二人で犯した罪の償いになればと、俊作の両親に資金提供をしていた。中央へと移り住んだのちに会社を興したが、資金調達に困っていると人づてに聞いたからだ。資金に余裕が出来ると、効果的な運用が図れ、経営も軌道に乗った。農業関係という会社だけあって、見返りとして野菜や果物といった作物が送られて来るようになった。恵理子が山間の村に落ち着いたあと、児島の家を通してその村へ資金提供をするようになったのも、しかるべきことだと言える。  その話を持ち掛けた時、村長の又吉が尚嗣に会いたがった。顔も知らない相手から金を受け取る訳には行かないと言われ、それで一度だけ、児島の会社で顔を合わせていたのだった。  事情は話せないという尚嗣に、又吉はそれなら恵理子と亜樹の暮らしぶりを見てから決めると答えていた。一年程して、尚嗣の申し出を受けると連絡があった。二人が山間の村に受け入れられたことがそれでわかった。  又吉はその資金で、前々から考えていた最新の農業施設の誘致を成功させ、近隣の村々も含めて地域一帯を豊かにして行った。吉乃は山間の村々からも野菜が送られて来るようになったと話していた。それを吉乃が知り合いの飲食店に分け与えているのだった。  葵が生まれると、恵理子はこの町との繋がりを秘密にしてくれるよう又吉に頼んでいた。葵には山間の村が故郷であり、そこが人生の中心であって欲しいからだと話していたそうだ。尚嗣は存在しないことにされたが、尚嗣も納得していたことだった。  それが事故のあと、何も説明しないままに、葵を(さら)うようにして引き取った。病院に代理人を送り、全ての手続きを処理させ、葵を車に乗せてこの町に連れて来させた。そのことに又吉が腹を立てたとしても、何も言い返せない。病院では村の大人達に抗議をされたと、代理人からも報告を受けている。  尚嗣は言葉を飾って言い訳するつもりはなかった。今まで通り、資金提供を続けるつもりでいることは伝えてある。こちらの誠意を理解してもらう方法が、それしか尚嗣には考え付かなかったからでもある。 「ここではなんですから、上に……」  尚嗣は緊張気味に誘ったが、又吉にはそれ程のことでもなかったようだ。笑顔で首を横に振っている。 「いやぁ、無理なお願いに来たのはこちらですしね、列車の時間もあります、今日中に戻るつもりでおりますから、ここで十分ですよ」 「それでは……その、どういったご用件で?」  先にソファに座った又吉にならって、尚嗣も向かい側に座り、戸惑ったように尋ねた。 「孫のことです。本当に()かん気な子で困ったもんです」  そう言いながらも、可愛くて仕方がないのは、目尻を下げているのでわかる。尚嗣は葵のことで非難されると思っていたが、どうも話が違うようだと気付いた。心持ちソファに深く座り直してから、思い出すようにして答えた。 「児島の方から、時折ですが、そちらの様子は聞いておりました。確か……聡君でしたね?葵とは同い年だったような……?」

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