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第二部 19-4 (終)

「けどさ、俺の倍もありそうな大男には、びっくりしたよ」  少年の愛らしい外見からすれば、ちぐはぐな色気を感じさせるその声が、そこにいる大人達の耳には心地良く響く。彼らは少年の柔らかく毛羽立ったような低い掠れ声に、目を細めて聞き入っていた。それが尚嗣には奇態(きたい)なものに映る。 「そいつ、もらったばっかりの名刺、捨てちまうしさ。なんか悔しかったから、他にもあるぞって見せてやったら、全部捨てろって言うし、何様だってぇの。うるせぇ、邪魔すんなったらさ、ポケットに、手、突っ込んで来るし、クソだよ、クソっ。学ラン着てたけど、あの(つら)じゃ、中学って感じじゃねぇな。高校生だからって、負けてたまるかってぇの」  大人達は少年の話を少しも理解していない。その愛らしさに呑まれ、呪縛されたかのように、にこやかに頷いている。 「この野郎、なめんじゃねぇぞって凄んでやったら、めっちゃ怖い顔するし、腕、掴むしさ。だから、蹴飛ばして、ふらついたとこを殴ってやった。そいつのせいで、葵の学校に行けなくなっちゃたし、もう二、三発、殴ってやりたかったけど、やっぱ、逃げどきってあるじゃん。そんで、改札、抜けて、列車に飛び乗って、駅に着いたとこで、爺ちゃんに電話したんだ」  一人で喋り続けて、喉が渇いたのだろう。少年は又吉の飲み残しのコーヒーに手を出し、(あお)るようにして一気に飲んだ。 「うへぇ、にがっ」 「当たり前だろう、おまえはいつも、砂糖とミルクを一杯にして飲んでいるからな」  又吉は少年からカップを取り上げ、ソーサーに戻してから尚嗣へと向き直る。孫に甘いとはいえ、誰もが息を呑んだ少年の可愛さにも、そこに見え隠れしている妖しさにも、祖父である又吉には見えていないようだった。尚嗣の困惑げな表情に気付くと、それが少年の無作法な物言いに対してだと思ったようで、恥ずかしそうに顔を赤くしていた。 「本当に、利かん気な子で、申し訳ない。ほれ、香月さんにちゃんとご挨拶しな」  少年は尚嗣に顔を向け、値踏みするかのように、少しのあいだじっと見詰めた。すぐに、ニコッと笑ったが、尚嗣はその笑顔に不思議な感覚へと引き込まれて行くのを感じた。 「俺……鶴木聡(つるぎさとし)です。葵の……友達です」  ぺこりと頭を下げて、又吉にすり寄るところは、まだまだ子供だと思うが、無意識だとしても、大人達を手玉に取るような雰囲気には成熟したものを見る。尚嗣は聡の笑顔に、葵の大人びた落ち着きにはない世慣れた艶めきのようなものを感じて、戸惑わされていた。  又吉の大きな体に身を隠すようにしながらも、横目で尚嗣を見詰め続けていた聡の眼差しに、気持ちが刺激されたのかもしれない。この目を見たことがある。そう思った瞬間、尚嗣は有り得ないことだと否定したが、胸の奥が熱く震えたような気がしてならなかった。 「おおっと、時間だ」  又吉の朗らかな声に、無意味な幻想に怯えた尚嗣の心もふっと静まった。やはり気のせいだったと自らに言い聞かせ、又吉へと気持ちを向ける。 「列車の時間ですか?」 「ええ、そうですわ。席を予約しましたからね、もう出ないと乗り遅れてしまう」  又吉が聡を促して立ち上がると、聡は小さな子供のように、一人で元気に広いエントランスホールを突っ切って行った。 「爺ちゃん、何してんだよ」  駆け出した勢いのままに急停止し、出入り口の自動ドアの手前で、又吉を()かせ始める。又吉は深い溜め息と共に、同じように立ち上がった尚嗣に丁寧に頭を下げていた。 「無理なお願いをしてしまって、申し訳なかったです。ですが、快く引き受けて下さったことに感謝します」  そう言ったあと、強い口調で聡を呼び戻した。ぐずりながら戻って来た聡の頭に手を置き、そのままグイっと押して頭を下げさせる。 「おまえからもお願いしないとな」 「うぅん」  聡は又吉の手を邪魔臭そうに外し、今はまだ身長に差のある尚嗣を、子供らしい仕草で上目遣いに見詰めた。その可憐な瞳の奥に、ほんの一瞬、影が差し、鈍い光が煌めいた。まさかと思う尚嗣を笑うように、それでいて、その笑顔に嘘がないと思わせる楽しさで、聡が言った。 「よろしくお願いします。だけど、葵には内緒にして下さい」 「内緒って、おまえ、葵に会いたくて、学校へも行こうとしたじゃないか?」 「だって、葵の爺ちゃんが約束してくれたんだろ?ならさ、葵をびっくりさせたいじゃん、その方が面白いもん」 「面白いもんって、おまえなぁ……」  又吉の溜め息は深く重く、床に達する程だったが、諦めたように首を横に振り、それ以上は何も言わなかった。列車の時間が迫っているのを思い出したようで、焦るように聡を連れて外に出る。  尚嗣も外に出て、表門(おもてもん)からエントランスへと繋がる前庭(まえにわ)を、二人と並んで歩いた。田舎の森と同じ匂いがすると言った又吉に、嬉しいことだと言葉を返しながら、車一台が通り抜けられる広さの敷石の上を緩やかに歩く。通りに出たところで立ち止まり、別れの挨拶を交わしたあと、駅に向かって横断歩道を渡る二人の背中を、その場に立って見えなくなるまで見送った。この町の当主になるべくして生まれた尚嗣の人生では、初めてのことだった。  聡が又吉をからかうようなことを言ったのだろう。それに怒って拳を振り上げる又吉に、ケラケラと笑い返している。又吉が聡の頭を軽く拳でコツンと叩いたところで、二人の姿は人混みに紛れて見えなくなった。 「仲の良いご家族でございますね」  後ろに控えていた吉乃の言葉に、尚嗣は頷いた。心の奥では、喜ばしいような悲しいような、複雑な思いに駆られていたが、吉乃に気付かせはしない。ほっとする思いに寂しさを感じ、その理由に胸が痛むのを知るべき相手は、この世で一人だけと思うからだった。

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