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第二部 20-1

 剛造は省吾と最後に口を利いたのがいつかを考えてみた。二年前、優希の『鳳盟学園』入学を祝うパーティーで、何年かぶりに成長したその姿を目にしたが、直接には何も話していない。省吾の方にも、剛造と話したがっている様子は見えなかった。途中でさっさと帰ったのを見ればわかることだ。 〝お爺さま、おはようございます〟  きちんとした言葉遣いだが、三歳児らしい(つたな)い物言いが脳裏に響く。剛造は藤野に預けたあの日の朝の挨拶を最後に、省吾とは一度も話していないことに気付いた。孫であっても、省吾と話すには、有無を言わさずに会うしかないのかもしれない。 「十五年か……」  省吾にすれば、剛造の命令と言われようが、おいそれと承諾出来るような話ではないだろう。剛造の方から省吾が住む洋館へと訪ねて行くのが最善と思うが、曾祖父が別宅として建てたあの洋館には、剛造なりに思い入れがあり、気軽に足を踏み入れられるような場所ではなかった。  現在では藤野の邸宅として知られている洋館だが、元々は洒落者と言われた曾祖父の新しもの好きが高じて建てられた屋敷だった。特定の誰かを住まわせたという話もなく、何が目的で建てられたかは謎になっている。金を惜しまずに建てさせたというのに、時折、曾祖父が独りで過ごす以外に使われることがなかったせいで、あれこれと取るに足らない噂が囁かれていたという話だった。  香月家の臣下が集う屋敷町一帯では、富豪の道楽と思われていた。曾祖父自らがそう思わせていたとも言えるが、妙な詮索をされるよりは、領主を凌ぐ勢いの素封家(そほうか)と陰口を叩かせ、見下させた方が無難だと思ったようだ。敵と味方の区別が付き、その後の報復にも役立てたと、曾祖父自身が言い残している。祖父も父親も同じようなもので、あの洋館を愛し、生涯を掛けて大切に管理していた。  剛造もそうするつもりでいた。いつでも使えるよう手入れを怠らなかったが、藤野に売り渡すまでのあいだに、剛造が実際に中に入ったのは一度きりだった。二十歳(はたち)の時のあの一度が、その後の人生を狂わし、間違いに気付くまでの長い時間を無駄にさせたことになる。  その日、剛造は尚嗣が来るのを待っていた。(はや)る気持ちを静めようと、書斎のドアに背を向けて立ち、マントルピースに片腕を載せて、当時、既に装飾と化していた暖炉をじっと見詰めていたのだった。〝冬になったら薪を焚こう。尚嗣を誘って、二人で炎の揺らめきを楽しもう〟と、二十歳の若造らしい馬鹿なことを思っていた。 〝他の者は?〟  その声に振り向くと、尚嗣がドアを開けて書斎に入って来るところだった。剛造は上着を脱いでソファに投げ掛け、襟に柄のある黒のシルクシャツにズボンという気楽さでいたが、尚嗣は濃紺のブレザーにボタンダウンシャツ、チノパンという伝統的なスタイルをすっきりと着こなしていた。美しく整った気品ある顔からは何も読み取らせなかったが、ドアを開けた途端、シャツを押し上げる逞しい背中を見せられたことで、声音には隠し切れない動揺を浮かび上がらせていた。  剛造はあの時、尚嗣の父親が息子には何も教えずに来させたのを悟った。児島俊作が自殺してからというもの、剛造と尚嗣のこじれた関係が修復されることはなかった。剛造も意固地になり、尚嗣が折れるのを待っていたからだ。お互いが二十歳になったあの頃は、最悪な時期でもあったのだった。そうした時に『血の契り』をするよう息子を説得しても、無駄と思ったのだろう。尚嗣の父親はそれらしい作り話で息子を送り出したようだった。 〝僕だけさ、他には誰もいない〟  剛造はドアが閉まるのを確かめるようにして答えていた。尚嗣が怪訝な表情を見せたのは、まだ気持ちに余裕があったからだろう。その余裕も直後に消え失せていた。 〝それなら失礼する。父の代理で、こちらで開かれる会合に出るよう言われたが、手違いがあったようなのでね〟  尚嗣は緩やかな仕草で剛造に背を向け、ドアの取っ手に手を掛けた。取っ手はぴくりとも動かず、尚嗣にドアを開けることは出来なかった。 〝鍵が掛かっている……のか?〟 〝まぁ、座れよ〟  剛造はマントルピースから離れ、ソファに腰掛けた。尚嗣が立ったままでいようとしたことには、好きにすればいいと、笑顔を見せていた。尚嗣を油断させる為にも、焦らないことだと自らに言い聞かせていた。 〝ナオの父親は僕に丸投げしたみたいだな〟 〝君は何を……?〟  尚嗣が自分の父親に騙されたことを理解するのに、時間は必要ない。はっきりと認めたくないだけのことだ。それが不安を呼び、隙を作る。尚嗣の気持ちが揺らいだその時を(のが)さず、剛造は素早く動いた。さっと立ち上がって尚嗣の腕を掴み、床に引き倒した。自分の体を重石にして尚嗣を押さえ込み、自由を奪った。 〝何をする!〟  尚嗣の怒声は、領主たる血筋が見せる迫力に満ちていた。しかし、『血の契り』においては、主人は剛造の方だ。臍の下辺りが熱を持ち、そこから迸る熱情のうねりが体中を這い回り、剛造に力をもたらす。のちに〝印〟と信じ、大きな間違いを犯すことになる証が生み出す力に、尚嗣が逆らえないのを剛造は知っていた。 〝曾祖父までは、夜伽目付(よとぎめつけ)というのがいてね、衝立の向こうで、一晩中寝ないで付き添っていたそうなんだ〟  剛造は尚嗣から立ち上り始めた匂いを嗅ごうとして、顔を近付けた。切なげな香りに漂う甘さに、尚嗣の興奮を思うのだった。 〝契りがきちんとなされたかを確かめる為にね、役目が済むと、彼らは葬られたんだよ、斬首刑だった。秘密が漏れないようにと、そこまでしたなんて、笑えるよな〟  剛造は鼻先を、唇を、尚嗣のボタンダウンシャツの開いた襟から潜り込ませ、首筋にこすり付けるようにして、尚嗣の耳に囁き声を響かせ続けた。 〝曾祖父はそれをやめさせた、確かめる必要のないことだとしてね。この洋館を建てたのは、これの為、二人だけで楽しめるようにと思ったからさ。その後の逢い引きにも使えるしね。蜂谷の者は非情だよ、だけど、これで結構、ロマンチストなんだ〟 〝馬鹿な……離せ!〟 〝ナオにはわかっているよな?僕が振り払えないことが……さ〟 〝い……嫌だっっ!〟

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