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第二部 20-2

 尚嗣の声は剛造の耳には子供のように響いたが、上着を脱がし、シャツにチノパン、下着と取り去ったあとに現れた体は、少しも子供ではなかった。青年らしい生命力に溢れた色香が匂い立ち、女にはないしなやかさと張りのある筋肉に覆われた完璧な美を備えていた。臍の下辺りに目を遣ると、そこには剛造のと同じ形の熱情の証がはっきりと見えていた。尚嗣の抵抗は、剛造をより強欲な略奪者にしたに過ぎなかった。 〝ナオ、君は少しも嫌がっていないよ〟  剛造は自らの欲望に掠れた声を覚えている。自分がどう衣服を脱いだかを記憶していないというのに、興奮に震える肌の刺激的な匂いも、歓喜に喘ぐ息の熱い揺らめきも、つい昨日のことのように覚えている。 〝ああ、なんて綺麗なんだ……〟  尚嗣の乱れる(さま)は悩ましくも優雅で、剛造を狂おしいまでに喜ばせた。高貴で完璧なる美を書斎の床で(けが)すことが、剛造に愉悦の波を引き起こす。繰り返し訪れるその波の激しさに身をゆだね、尚嗣が描き出す官能の嵐を心行くまで堪能した。  淫猥な匂いが書斎を満たし、更なる刺激に狂気しそうだった。このままでは、床で一晩を過ごすことになる。剛造は裸のまま尚嗣を抱き上げ、寝室へと向かった。  書斎のドアを足で蹴り開けた時に、尚嗣が微かに反応を見せたのには気付いていた。鍵が掛かっていたのを思えば、疑問を感じて当然だろう。愛だけが行為の礎ではない。尚嗣も自分の身に起きたことに理由があるのは、薄々感じ取っていたようだった。  夜伽目付という役目をなくしても、それを担っていた者達がいなくなった訳ではない。蜂谷の遠い先祖が、血に棲むものとの約束の危うさを思い、秘密裏に、蜂谷家の守護を務めとする者達を組織していたのだ。斬首さえ平然と受け入れた彼らは、『血の契り』と共に千年の月日を過ごすうち、独自の誇りに奮い立ち、〝我らが認めた主人でなければ仕えない〟と、蜂谷の当主に明言するまでになっていた。  この日、洋館で何が起きていたとしても、彼らが隠す。それを知らせるように鍵を開け、次なる主人と認めた剛造に、〝この後は好きにお楽しみ下さい〟と、暗に伝えていたのだった。  剛造は顔がにやつくのを止められなかった。気持ちが緩み、そのせいで、互いの汗に濡れた肌が滑り合った。寝室がある二階へと階段を上っていたが、尚嗣を落とすようなへまはしない。剛造程ではなかったが、尚嗣も十分に長身で剛健だった。それ程に成人した男を、軽々と運べる勇壮さに酔い痴れるばかりだった。  バスルームでは母親のように世話を焼いた。愛おしさから来る繊細さが自分にあったことに驚き、笑みが零れた。尚嗣は笑い返さなかったが、抵抗も見せなかった。(よご)れを落としたあとの光り輝く肌を、ほんのり色付かせ、品のある艶めきに押し隠す感情を浮かばせていた。  その恥じらいを帯びた優雅な美しさを味わおうと、ベッドに横たえ、のし掛かった。尚嗣は剛造を見ようとしなかったが、構わなかった。剛造が呼び起こした痛みと喜びに揺れ動く体は確かに、剛造の激しい熱の迸りに応えていた。それは尚嗣が自分のものだと確信した瞬間でもあった。  剛造は尚嗣を腕に抱いて眠った。詳しい話は一眠りしたあとでいいと思った。しかし、目覚めた時、尚嗣の姿はなかった。慌てて部屋という部屋を探したが、どこにも尚嗣の姿はなかった。最後に書斎に行き、この手で剥ぎ取った服がなくなっているのを見て、黙って一人で帰ったのを認めるより他なかった。  暫くのあいだ、尚嗣は大学を休んでいた。香月の家に連絡を入れても、寝込んでいると言われ、繋いではもらえなかった。見舞いに行こうとしたが、惨めなことはするなと、父親に言われて諦めた。翌週になって大学に姿を見せた尚嗣に安堵し、抱き寄せようとしたが、僅かな接触さえ嫌悪するという勢いで振り払われた。  尚嗣は父親からこの町の秘密を聞いたと言った。義務は果たしたと、ひややかに続けた。 〝忘れないでもらいたい。君をこの先も許さない気持ちに変わりはない〟  領主然と、尚嗣は剛造に告げていた。その時に、尚嗣のものを全て奪うことを心に決めた。尚嗣が剛造のものであることに間違いはない。尚嗣がそこに気付こうとしないのであれば、気付かせるしかない。何年掛かろうと―――結局、半世紀以上も過ぎてしまったが、必ず気付かせてみせると自分に誓った。  あの日がなければ、剛造も尚嗣のことを諦めていたかもしれない。若気の至りで、のぼせ上がっていただけと切り捨てられたようにも思う。その後の人生において、あれ以上の完璧な美を、誰か一人でも剛造に体感させてくれたのなら、そうしていただろう。高潔とは無縁な生き方の中で、尚嗣だけが剛造には唯一の存在だった。  その思い入れ深い洋館を、十年前に藤野が譲って欲しいと頼みに来た時には、成り上がり者の見栄だろうと思った。藤野が野心家であることを誰よりも知る剛造には、虚栄心から屋敷町に住居を移したがっているように見えたのだ。  本来なら弘人が管理をしているはずだが、『血の契り』を知らずにいる弘人は、この町の歴史ある古風な建物と同じで、あの洋館も無用なものと思っている。取り壊される運命にあるのなら、藤野に譲るのも一興だと思った。  剛造は弘人の反対を押し切り、外観を損なわないのを条件に、藤野に売り渡した。使い勝手がいいように改修したと聞くが、約束通りに外観は昔のままの姿を保っている。中がどう変わったかに興味はなかった。家族で移る前に、藤野に招待されたが断っていた。 「さて、どうしたものか……」  剛造は省吾との話し合いを思い、心持ち楽しげに呟いた。知識としては、あの日の書斎が、今では藤野の書斎になっているのを知っている。尚嗣を抱いて眠った部屋が、省吾の自室になっていることもだ。その皮肉さを思った時、何をしたらいいのかも、わかって来るのだった。

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