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第二部 20-4 (終)

 藤野の父親は、弘人と結婚させた麻美を妹だと言って藤野に渡したあと、またもふらりと出掛けて行き、そのまま戻っては来なかった。生死不明の状態が続いていたが、藤野が成人した時に父親の失踪届を出したことで、書類上は死人扱いになっている。  年齢を考えれば、とっくの昔に、うらぶれた街の片隅で()き倒れているに違いない。無責任な親が残した赤ん坊が本当に妹かどうかも怪しいものだが、藤野は確かめるようなことをせずに、兄としての責任を果たした。剛造の援助もあって大学まで通い、在学中から剛造の仕事を手伝いながら、二十代後半には、麻美を『淑芳女学園』に入学させるくらいの蓄えを手にしたのだから、その手腕は大したものだった。 「そうか、私に感謝してくれるのか、それなら話は早いな」  剛造は藤野が自力でなし得たものと知っていながら、敢えて自分への恩を藤野に言わせた。 「会長の為でしたら、なんなりと……」  にこやかさを顔に貼り付けたままでも、藤野の目には灰色の翳りが現れている。光が差し、そこに出来た影にも似た翳りが鈍く煌めいたのを、剛造は見届けた。ほんの少し望めたに過ぎないが、児島俊作が見せた冷たく乾いたような眼差しと同じだった。呼び覚まされた記憶に浮かんだものが、藤野の目に見た鈍い煌めきだったと理解する。  剛造は藤野に笑い返し、既に決まっていることを伝えるように、さり気なく言った。 「この日曜に、私の屋敷で省吾と会う」 「省吾……坊ちゃんと?それはまた、どういったことなのですか?」 「私は自分の間違いを認めるのに、(やぶさ)かではないのだよ。省吾とも和解をしなくてはならないのなら、そうするだけのことでね」  藤野の顔付きが微妙に乱れた。藤野だけの感情で表情が変わったのではなさそうだった。剛造は不思議な生き物でも見るように藤野を眺め、話を継いだ。 「おまえに預けるのが最善と考えたのだが、浅はかだった。省吾の気持ちを思うと、許せないことだとはわかるがな。だが、おまえから聞かされたのなら、省吾も無視をするまい。違うか?」 「坊ちゃんがお決めになることです。私がここで返事をする訳には参りません」 「私はおまえの返事を聞きに来たのではないぞ」 「ですが……」 「それ程までにおまえ達は主人を、かつて私の中にいたものを恐れているのか?」  剛造の言葉の意味が、一瞬の間、藤野には理解出来なかったようだ。それが理解出来た時、藤野はにこやかな仮面をかなぐり捨てた。本来の狡猾さが滲み出る眼差しで、剛造を冷たく見詰める。 「おかしな言い方をされますね?主人はあなたですのに?」  言葉遣いは丁寧だが、その口調は悪辣(あくらつ)で粗暴な男を思わせる。 「会長というのが良くなかったのでしょうか?昔のように、旦那様とお呼びした方がよろしいのでしょうね?」  剛造に何が起きたのかを探ろうというのだろう。わざとらしい嫌らしさで剛造を怒らせ、喋らせようとしている。剛造は小手先を利かせたところで無意味だと、藤野に教えることにした。 「腹の探り合いをする気はない、時間の無駄だ。省吾も同じことを言うぞ。私の孫であるのは動かしようのない事実だからな。優希と違って、あれは私にそっくりだ、見た目も中身も」 「それは如何ともし難いことです……」  藤野は諦め口調で、省吾の性質を咎めるように答えていた。 「……人としてはあなたの血を受け継いでいる」 「香月の孫とは大違いか?あれにしても、外見は違えども、香月の血筋そのままに、領主の風格を持ち合わせていそうだがな。田舎育ちで、尚嗣程の品位は備えていないが……」  学園の食堂で起きたことを、ここで蒸し返す必要はない。そう思って言った言葉に、案の定、藤野は気に掛ける様子もなく頷いていた。剛造を前に、自分を偽る必要がなくなったのを、どこかでほっとしている風にも見える。藤野は肩の力を抜くかのようにソファにもたれ、ニヤリとしながら尋ねていた。 「何故、気付かれてしまったのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」 「そうだな、構わないぞ」  丁寧な物言いは変えずに、それでいて、子供の頃がそうであっただろう悪賢く下品な顔付きをして見せる藤野を、剛造は気に入り始めている。何事にも嫌な顔一つせずに従い、そつなくこなせる男より人間味が感じられる。 「私にも、省吾のような年頃があったということだ」  藤野には人に(あら)ざるものが憑いている。その奇特な能力を駆使したところで、理解しようのない表現だったのだろう。厳つい顔が、訳がわからないという表情に(ほう)けたのがおかしい。剛造は昔を思い出せと―――藤野ではなかった頃の記憶が答えだと、わからせるように続けた。 「蜂谷の者として相応しく生まれた者は、非情ではあるが、ロマンチストでもある。省吾にもそういったところがあるだろう?私にもあったことは、忘れてはおるまい?」  あの日、尚嗣にも話したことだ。『血の契り』という習わしと共に、人に憑いて生きた長年のあいだに、夜伽目付をしたことのない(やから)にも、そこは理解出来たようだった。 「困ったものです」 「困ることはなかろう?千年も付き合っていれば、馴染むものだ。むしろ、おまえ達の方が人に近付き過ぎだと、あれも思っているのではないのか?」  藤野は笑った。取って付けたような笑いではなく、素直な笑いだった。 「会長を(あなど)っておりましたよ。反省しないといけませんね、私も自分の間違いを認めるのに、吝かではありませんので」 「ふふっ、いい大人が悔し紛れに心にもないことを言うのか?やめておけ、おまえの価値が下がるだけだ」  叱られたとでも思ったのだろう。藤野を包んでいた男の色気が消え失せた。藤野は拗ねた子供のようにむすっとし、それが剛造の目には可愛く映る。  藤野にはもう言うべきことはない。話は終わったのだ。剛造はそう理解して、ゆったりと立ち上がり、部屋を仕切るドアへと歩いた。 「省吾も私を侮っていることだろう……」  剛造が手ずから仕切りのドアを開けると、藤野の秘書がわきまえたように廊下へと通じるドアを開けに行く。それを待つ僅かなあいだに、藤野が嫌々ながらも見送ろうと立ち上がったのに気付き、わざと振り向かずに言った。 「……あれからすれば、今の私はただの人でしかない。だが、省吾も人として生きている。私と話すことは損にはならない、あれにはわかることだ」  日曜日に、省吾が屋敷に来るのが、剛造には楽しみでならなかった。

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