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第二部 21-3

「まぁね、だけど、あの子なら、おまえも気に入ると思う。藤野とオオノのようにさ」 「冗談だろ?俺はオオノみたいに、眺めてるだけで幸せなんて、絶対に無理だ。おまえだってそうだろ?」 「そこは、なんとでも……」  笑いながら答えていたサキに、誠司は渋い顔をして見せた。オオノは知られないよう気持ちを抑えているが、誠司の母親である真理への禁欲的な愛は、周知の事実だ。真理だけが知らずにいる。それを思うと、サキが仄めかす開放的な愛が、誠司には耐えられそうもなかった。  真理を見付けたのは、オオノだった。『淑芳女学園』の中等部入学式の日に、両親と連れ立って歩く初々しい制服姿の真理を見て、二十代後半の青年が心を奪われたのだ。  当時、藤野の運転手をしていたオオノは、その日の朝、中等部の生徒会長だった麻美が遅刻しそうだと焦っていたのを見て、送ると言って車を出してやった。その帰りに、琥珀のような色合いの大きな瞳が印象的で、溌剌として、それでいて清純で愛らしい新入生に魅了されたのだった。それが真理だった。  半身の藤野がオオノと共鳴したのは当然で、その日から二人して真理の成長を見守っていた。人としてはオオノが藤野に譲った形だが、オオノの真理への愛は、初めて目にしたその日から変わらず、穏やかで深い。 「そこは、なんとでも……」  半身なら可能というようなサキの言葉を、これ以上ないくらいに完璧に無視したのも、オオノのようにはなれないとわかっているからだ。そうした誠司の取り付く(しま)もない態度に、サキは苦笑を漏らしていた。 「……ホント、堅物(かたぶつ)だな」  そこで突然、場違いなクラシック音楽が短く鳴ったことで、ぎくしゃくした空気も僅かながら和んだ。サキのスマホの着信音だったが、この顔でこの体で、クラシック好きというのを、人には不思議がられている。仲間内では、格式張った堅苦しさを好む男に似合いと思われているが、それを言いふらしたりしないのが仲間でもある。  サキは男らしい粋な仕草でズボンの尻ポケットからスマホを取り出し、うっすらと笑みを浮かべてメールを確かめていたが、不意に顔付きを変えていた。画面をスライドさせながら、誠司の関心を引こうというのか、口調を心持ちきつくして話し出す。 「改札を出たところで、好みの顔がいると思ってさ、近寄ったまでは良かったんだけど……」  誠司はサキの様子を訝しんだが、スマホを見るサキの真剣な目付きから、邪魔をせずに黙って話を聞くことにした。 「……あの子、場末のスカウトの名刺を躊躇(ためら)わずにもらいやがっててさ、柄にもなく、やめさせようとしたんだよ。そうしたら、他にもあるぞって見せ付けやがるし、睨み付けてやったら、余計なことだと凄んで来るし、それがまた天使かってくらいに可愛い顔でね、で、油断した。足を蹴られて、ふらついたところを殴り掛かられた。口の端を掠った程度だったけど、切れていたなんて、相当だよな?」  画面を次々と切り替え、淡々と事情を説明していたサキが、そこでつと指を止めていた。誠司は何事かと思ったが、サキがスマホを持ち替えて、画面をこちらに向けた時、単に自分の間抜けさ加減を、馬鹿にさせない為だったとわかる。  サキはニヤリとし、何かを期待するような口調で問い掛けていた。 「どう?気に入らないか?」  それは調査書にある画像だった。関係者以外の閲覧が禁止されているものだが、それをどうこう思う間もなく、誠司はその画像に見入っていた。詰襟姿で真面目な顔をしているが、目の覚めるような可愛らしさに、言葉も出ない。サキが期待したのは、そうした誠司の唖然とした顔だった。 「これじゃあな、この町の奴なら俺が知らないはずはない。俺が言うのもなんだが、私服でうろついててさ、スカウトの名刺をもらっているのを見れば、家出をしたのかと思うだろ?今夜のねぐら探しで駅にいるのかって、思うよな?」  サキはスマホを自分へと向き直してから、思い出し笑いに口元を皮肉っぽく歪めた。 「俺に殴り掛かったあと、スマホで改札を通ったからな、すぐにコウのオヤジの会社に連絡を入れたんだ、可愛いあの子のスマホを特定してもらおうと思ってね。たまたま出た奴が、私用で使うなと言いやがったけど……」  またも重厚で場違いなクラシック音楽が鳴り、調査書の画像を送付して来た相手から、別の報告が入ったのがわかる。今度はそれを眺めながらニヤニヤし始めていた。 「……クロキの店の特別チケットと引き換えなら、やってやらないこともないって言われてさ。そいつ、俺達より一つ上の学生バイトだぞ、ママに知れたら、大目玉なのにな?」  クロキの店の管理もする藤野の親としての稼業を、誠司は恥じていない。とかく噂のある店にも自由に出入りしている。それなのに、クロキのあの店にだけは近付かなかった。食べられたものでないとわかっていながら、母親の手作りケーキを試食し続けているのと同じ理由だと、サキは思っている。〝マザコン誠司〟と最初に言い出したのもサキだった。  サキは機会があれば、何かと誠司をからかおうとする。ニヤニヤしたのもそのせいだろう。ところが、スマホを特定してからの追跡報告に目を向けるサキに、笑いはなかった。軽薄な話しぶりにも、重たげな響きが加わっている。 「改札を通ったあと、列車に乗ったのはわかるが、降りた駅がおかしい」  サキは指をせわしなく動かし、チケットで懐柔したバイトとメールで遣り取りを始めた。別の報告が届くと、奇妙なことに、少しだけ不安げな口調で続けていた。 「ああ、やっぱりな、香月のマンションに立ち寄っている。中に入っているが、時間的に見て、エントランスまでだな、少し前にそこを出て、また駅に向かった。列車に乗るみたいだ。調査書にある住所に帰るのかもな。何をしに来たかはわからないが、家出じゃあないみたいだ、おまえもそう思うだろ?」 「そいつ、どこに住んでる?」  誠司はたまらず問い返していた。クソ生意気な美人がかかわっていそうでは、黙っていられない。 「それが凄いところでね、山奥の、なんたら地区ってところに住んでいる」  誠司はサキのスマホを引ったくり、自分の目で直接確かめた。その住所は知らないが、クソ生意気な美人が山間の村から来たというのは、誰もが承知していることだ。 「ああっ、クソっ……」 〝山猿か小猿かの違いなんて、葵は気にしない……〟  省吾の自虐気味な声が、物柔らかな響きで脳裏に浮かぶ。 「……クソっ、山猿かっ」  誠司は省吾が廊下で口にしたことを思い出し、あの時に気付けなかった自分を悔しがった。手掛かりは何度かあった。クソ生意気な美人とかかわりたくないと言った時にも、省吾の父親が戻って来たことで心配して見せた時にも、省吾は楽しそうに笑っていた。誠司の記憶にとどまる昔の苦い思いを十分に理解していることを、やんわりと示していたのだろう。  誠司は話が見えないのを苛立つサキに、教えることにした。昔の複雑な思いは、仲間内には知られていることだ。今更、隠しても意味がない。それは省吾にも言えることだった。  藤野や仲間達から聞かされた話を―――我らが主人、血に棲むものにまつわる話を、省吾が否定したことはない。だからといって、完全に受け入れているのでもない。どこかで絵空事と思いたがっている。誠司にはそう見えていた。 「省吾が言っていたんだよ……」  クソ生意気な美人が目の前に現れたことで、省吾は生々しい衝動に気持ちを高ぶらせ、思い通りにならないことに戸惑っている。小猿への鬱陶しいばかりの嫉妬は、悩ましく揺れ動く意志を制御出来ないからだ。そこには、その姿を実際には知らない山猿への嫉妬もあると、誠司には思えた。 「……さっき話したクラス委員長を小猿とたとえた時に、先に山猿と言っていたのさ。省吾はアレの好みがカワイイ猿だと信じている」 「省吾は気付いているというのか?この……」  サキは誠司の手からスマホを取り戻し、中々お目に掛かれない可愛らしさに視線を落としてから続けた。 「……鶴木聡が何者かを?」

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