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第二部 21-4 (終)

「ああ、だろうな。昨日、アレと二人で、どこまで話したかは知らないが、省吾のことだ、色々と聞き出したさ。それより、おまえの方こそ、お笑いだぞ、顔ばかり見てたせいで、仲間の匂いに気付かなかったなんてな」 「参ったなぁ……」  サキはスマホをズボンの尻ポケットにしまいながら、野太い声を照れ臭そうに掠らせた。 「俺の勘違いだと思ったけど、美人さんの知り合いってのなら、そうじゃなかったってことになる……」  可愛い顔に油断したのは間違いないのだが、足を蹴られる直前に、仲間の匂いを感じたのも確かだと、サキは言った。余りに微かな匂いで、勘違いと思った僅かな時間に、隙を突かれたというのだ。 「じゃなきゃ、そう簡単に蹴られたりしないさ」  サキは疑わしげな誠司の眼差しには笑い返していたが、少しだけ苛立つような口調で話していた。 「一瞬のことだったし、たまたま近くを通った仲間の匂いだと思ったんだよ。わざと共鳴しない奴らもいるだろ?」 「それじゃ、何か?おまえの匂いに気付いて、自分のを消したってのか?」 「そういうことになるよな?共鳴しない奴らにしたって、すれ違った時に、匂いを消すようなことはしない、する必要もないしさ」  何が起き始めているのかがわかって来ると、途端にサキの顔が愉快そうに崩れた。誠司の気持ちがわかるからこそ、サキには楽しくてならないようだ。 「可愛いあの子が、ずっと美人さんにくっ付いてたってことだ。こういうのを、人はなんて言うんだ?……輪廻か、デジャヴか?」 「ああっ、クソっ、参った」 「だろ?参るよな?」  サキが面白がる理由を、誠司は無視したかった。幾ら強面(こわもて)で睨み付けようが、サキの楽しみが()がれることはない。他の仲間には十分に効果的でも、誠司に絡むのが無上の幸せであるサキには無意味だった。 「おっと、お出ましだぞ。委員会だっけ?思いの外、早く終わったみたいだな?」  サキの声を追ってそちらを向くと、誠司の目に、エントランスホールから出て来た省吾の姿が映る。相変わらずの優美さで、何をしても絵になる男が、クソ生意気な美人を無理やりに抱き寄せている。我が物顔で肩に手を回し、流れるような仕草で耳元に口を寄せて何かを囁き、世にも稀な美貌を捻くれた笑いに歪ませたのを喜んでいる。 「甘々だな、ここから見ると、痴話喧嘩にしか見えないぞ」  その通りだとしても、誠司はサキの言葉に同意したいとは思わなかった。それより何より、小猿の委員長とキャッキャキャッキャ飛び跳ねているメイにむかついた。それを残り二匹と一緒に、白けた顔で眺めているコウとリクには、殺意にも似た感情が浮かぶ。 「俺は先に帰る!」  誠司は心の(おもむ)くままに声を張り上げた。そう叫んだと同時に、歩き出していた。自分からは決して省吾の側を離れない誠司が、初めて無茶な振る舞いに出た瞬間でもあった。  サキには誠司の気持ちが見えている。どこへ行こうとしているのかも理解している。サキは尻ポケットからスマホを取り出し、抑えた笑いに顔を緩やかにほぐした。画面を確かめ、野太い声をわざとらしく高くして、誠司の背中に向かって明るく話し掛ける。 「十七番線、急げば間に合うかもな」  誠司は前を向いたまま、サキのからかうような声にも平然とした顔で歩き続けた。いつものように長い足をゆったりと進め、駅へと向かう。しかし、サキから遠ざかるに従い、次第に歩調を速くし、いつしか全速力で走っていた。  同じように駅に向かう生徒達を次々と追い抜き、込み合い始めた改札をもどかしげに抜け、列車に飛び乗る。普段は気にもならない列車の速度が、のろのろしているように思えてならなかった。  町の中心の駅に着いてからも、十七番線を目指して駆けていた。乗客が乗り終えたあとの人影もまばらなホームに出ると、発車間際のアナウンスが流れていた。 「クソっ、どこだ!」  誠司は八両編成の車両に沿って、端からホームを走って行った。そして、その少年を見付けた。恰幅のいい初老の男の隣で、機嫌よく座っていた。  初老の男の福々しい顔が、自然と人を引き寄せるのだろう。男が通路越しに乗り合わせた乗客と身振り手振りで親しげに話し出すと、一人、前を向いて、自分だけの世界に入り込んでいる。少年らしい気ままさと汚れない愛らしさで、ニコニコと笑いながらスマホを眺め、耳にイヤホンをはめようとしていた。  窓ガラス越しに見えるその姿は、命が放つ熱にほんのりと色付き、吐く息の甘やかさに微かに揺らめいていた。そうした人の匂いをまとわせる生身(なまみ)のせいで、画像で見たものよりも遥かに可愛い少年を見る。誠司はその愛らしい顔を見詰め、拳にした指の関節で窓を叩いた。  小さな音にはっとしたように、少年がこちらに顔を向ける。最初は子供らしい覚束(おぼつか)ない表情を見せていた。ほんの束の間、年相応の可愛らしさで小さく首を傾げていた。次の瞬間、表情を消し、淡く煌めく灰色の影が差した瞳で誠司を見返していた。 「ガラス越しじゃ、匂いなんて嗅げないよな?なのに、おまえには俺がわかった」  そう呟いた時、発車のベルが鳴り響いた。ドアが閉まり、列車が動き出すと、そこには、イヤホンから流れる音楽に合わせて、体を軽く揺らす可憐で純真な少年しかいない。  誠司は次第に速度を増し、離れて行く列車を追い掛けることはしなかった。その場に立ち、静かに見送った。 「あいつは戻って来る」  この町に姿を見せたのも、その為に違いない。諦めはしない。千年ものあいだ、何度も重ねた失敗を元に力を強め、時に隠れ棲んで意志を研ぎ澄まし、仲間に匂いを嗅ぎ取らせないまでに成長した。それも我らが主人―――血に棲むものには通用しない。 「ああ、クソっ」  また同じことが繰り返される。胸の奥が疼き出したことで、波風(なみかぜ)のない穏やかな日々も終わったと知る。無駄だと諭した時の最後の記憶は、誠司には苦いものになっていた。 「省吾の野郎……」  誠司は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。余りに長い時間、人でい過ぎたことが彼らを迷わせる。意識を共有し、肉体を持ったことで知った感覚は、彼らには人を迷わせる媚薬と同じものになっていた。 「……メイだけじゃない、俺まで煽ってやがる」  誠司は人らしく感情的になった自分を嘆くしかなかった。 ――第二部 終わり

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