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第三部 出会い 1
彼女を見た時は信じられなかった。この部屋のドアチャイムを鳴らすのは、あの男以外に考えられない。だから、驚いた。
三歳年上なだけなのに、あの男は自分を仕事の出来る大人の男だと自慢する。二十代半ばのあの男が中心になって、町の再開発計画を進めているのだから、自慢したいのもわかる。町の重鎮に、特にあの男の父親に、馬鹿にされないよう必死になっているのだと思うが、それで忙しくしてくれているのなら、こちらにとっては都合がいい。一息つける。
今日も来られないと言われていた。ドアチャイムが鳴った時はおかしいと思ったが、油断してはならない。無視をすれば、後々 面倒なことになる。
あの男は仕置きと言って、変態行為をしたがる。懇願させたい為だけにする。ストリッパーをしていた時は、恥ずかしさはあったが、心も体も自分のものだった。今は違う。あの男のところに来て一年になるが、今ではあの男の思うようにされている。嫌だと口では言っても、体に裏切られる。それが愛だと、あの男は言った。本当にそうなのだろうか。愛なのだろうか。
いっそ何も感じないくらいに狂いたい。意志は強くない方なのに、中々狂えない。あの男が飽きるまで、この暮らしを続けるしかない。
それでドアを開けた。
あの男でないのは、瞬時にわかった。高級ブランドの派手なスカーフで髪を覆い、同じブランドのサングラスで卵型の小さな顔を隠していたが、誰であるかは見間違 いようがない。彼女は春らしい薄い色合いのコートを羽織り、その下は細身のパンツスーツという装いで、ドアの前に立っていた。
服装のセンスは素晴らしいものだった。スカーフにサングラス、それに靴がスニーカーだというのを無視すればだが、知り合いでもないのに、不思議と彼女らしいと思えた。
「部屋、間違えてる」
このマンションに住む友人でも訪ねて来たのだろう。そう思って、すぐにドアを閉めようとした。それを彼女が手で押さえた。眉を顰 めて見返した時、化粧っ気のない彼女の顔に微笑みが浮かんだ。
「あなたは篠原亜樹……君よね?」
名前を言われ、頷くより先に身構えた。彼女が誰かを思ったからだ。スカーフとサングラスで隠されていようが、あの男の婚約者だというのは、この町に住む者にはわかり切ったことだ。そうなると、この部屋に来た理由も自ずと知れる。
「そこでは目立つ、中に入って」
彼女を玄関先に立たせて、ドアを閉めた。奥には通せない。あの男は自分以外の誰も、この部屋に入るのを許さない。
あの男が監視しているのは、早いうちに気付いていた。盗撮とか盗聴というのではない。それどころか、定期的に調べさせている。愛人との濡れ場をコピーされ、どこでどう流されるかもしれない危険を、あの男は冒したりしない。その為のセキュリティだ。部屋への人の出入りだけでなく、いつどこへ行き、いつ帰って来たかを、逐一 報告させている。自由はあるが、厳しく管理されていた。
彼女が来たことは、すでに伝わっているだろう。それなら、あの男を慌てさせてやるのも面白い。勝手に押し掛けて来たことにまで、責任は負えない。玄関先で話しただけと言い訳も考えた。それで納得するとは思えないが、あとで何をされるにしても、この一瞬は気分がいい。だから、訳知り顔で馬鹿にしたように言った。
「別れて欲しいの?あんたの婚約者と……さ」
「あら?私がわかるの?」
彼女が驚くことの方がわからなかった。サングラスを取って、邪気のない眼差しで理由を知りたそうにしている。
綺麗な顔だった。いや、違う。可愛い顔だ。可愛くて綺麗な顔。薄茶色の虹彩が、玄関の照明に映えて金色にも見える。どぎつい金色ではない。淡く優しい輝きに魅了された。
「あんた、この町では有名だろ?」
余りじっと見ていては、変に思われそうだ。少し視線を逸らしてから続けた。
「……あいつと婚約したってこともニュースで見たぞ」
「そうね、正式に発表されたわね、逃げることにしたのも、それが理由だもの。だから、あなたが言ったようなことで来たのじゃないのよ」
彼女は悪戯を仕掛けようという子供のようだった。クスクスと笑うような響きで話す彼女に、こちらが驚かされる。
「逃げる……って、じゃ、なんで俺のとこに……?」
「逃げる前に、どうしてもあなたに聞きたかったことがあったの」
「俺に?何を?」
「あの方を……私の婚約者を愛している?」
「はあぁ?」
思わず、間の抜けた声を出してしまった。〝愛している?あの男を?冗談にも程がある〟咄嗟に浮かんだのは、その言葉だった。彼女に真正面から聞かれて、お陰でわかったことがある。あの男がしていることは愛とは違う。そこに気付くと、忘れていたのに、昨日、あの男がした名残りに体が痛んだ。
「大丈夫?顔色が悪いわ……」
彼女に気遣われるのが疎ましい。むしろ傷付けたい。
「あんたの婚約者は絶倫なんだよ、こっちの都合なんてお構いなしでさ、何度も俺をイカせて楽しんでいやがる。あいつなしじゃいられなくなるまで、何度も何度もな。こっちはあいつなんていらねぇってのに、好き勝手しやがんだよ、体がもたねぇっての」
彼女は育ちのいいお嬢様だ。この程度のことで、恥じらうように顔を赤らめる。そう思った。まさか怒りに顔を赤くしていたとは思わなかった。
「あの方は……」
頬を紅潮させ、激怒した声の震えもそのままに続けていた。
「……あなたを無理やり?」
適当にごまかしても良かった。何があったかに、彼女が興味を持つとは思えない。しかし、彼女を傷付けたくて言ったことに、彼女は代わりに腹を立ててくれた。彼女の怒りに向き合わないと、あの男と同じろくでなしになる。だから、きちんと答えていた。
「いいや、俺は自分からあいつのところに来た。俺には身内はいないけど、大切に思う人達がいる、その人達に迷惑は掛けられなくて……」
狂って、あの男に捨てられても、あの街の人達なら拾ってくれる。家族はいないが、帰る場所はある。それを思い出した。
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