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第三部 出会い 2 (終)

 父親が誰かは知らない。育てられないと言って施設に預けたのは、母親だった。その時から独りで生きて来た。それでも家族を持つのを夢見ていた。大人になったら、可愛い嫁と子供に囲まれて楽しく暮らすつもりでいた。利用されても、騙されても、いつかはと、幼い頃からの夢に(すが)って生きていた。  あの街に流れ着いた時には、子供じみた夢も捨ててしまった。あの街の人達と出会えたのだから構わない。思い描いた夢とは、かけ離れたものでも、大切な人達が出来た。 「……だから、俺は自分からあいつのものになった。あいつに逆らったら、どうなるかなんて、あんたにはわからないだろうけど、あいつには力がある。俺のせいで、大切な人達が傷付けられるのを見たくなかった」 「そうなの……」  彼女は考えるように俯いたが、すっと顔を上げ、こちらを真っ直ぐに見詰めた。 「あなたも私と一緒に逃げない?」 「えぇっ?」 「そうよ、それがいいわ」 「だって、あんた、この町の……」 「私はこの町と、さよならするの。あなたもそうしない?大切な人達とも、お別れすることになるけれど、それくらいの意気込みがなくちゃね?」  薄茶色の虹彩がキラキラと輝き、明るい金色に光っていた。それが鈍く翳ったのは、彼女の本音が瞳に映されたからだろう。 「私も大切な人と、お別れしたのよ、あなたのことを教えてくれた人とね、あの方の本性を私にわからせたかったの。あの方は子供の頃からずっと、私には紳士的だったもの。だけど、あなたのことを知れば、きっと保護したくなると思ったのね、あの方の玩具だから、かかわるなとも言われたわ。本当に私のことばかり心配しているのよ。それで無茶なことまでして……」  彼女の話は訳がわからなかったが、悲しさと寂しさは伝わって来る。慰めようもないことでも、元気付けたくなった。 「その人……あんたの大切な人、あんたの気持ち、ちゃんとわかってくれてるって」  彼女は小さく頷き、嬉しそうに笑った。 「だから、あなたも私と行かない?あなたの大切な人達も、わかってくれるわ、何も持たずに、今すぐ、駅に行って列車に乗るの」 「そんなの、無理だ」 「そうよね、こうした贅沢は無理かな……」  ワンルームとはいえ、エントランスホールを備えたセキュリティのしっかりしたマンションを、あの男は用意した。欲望を満たしに来るだけで、決して泊まらないのだから、これで十分だった。それが最近、どこかの駅前に建設中の豪華なマンションが完成したら、そちらに移すと言われた。結婚を控えている男が言うことかと思ったが、いつも以上の激しさのあとで苦しくて、あの男の機嫌を取るように喜んでみせた。あの時の自分を思うと、反吐(へど)が出る。小綺麗な玄関を眺め回した彼女に、きつく当たったのも、そのせいだった。 「それはこっちの台詞だ、あんたと違って、俺は貧乏の何かを知っている」 「それなら安心だわ、わからないことがあったなら、あなたに聞けばいいもの」 「あんた、何もわかっちゃいない……」  無茶苦茶だ。無計画過ぎて、付き合えない。はっきり断ろうと思った。それなのに言葉が続かなかった。あの男の愛人らしく、女のように抱かれる自分が、男らしく彼女を守ってやりたくなる。 「この町の駅からじゃ、逃げ切れないぜ。あんた、目立つからさ」 「そうかしら?こうして変装して来たのに?」 「それが変装?スカーフとサングラスと、その……スニーカーが?」 「ええ、そうよ。スニーカーは走って逃げる為だけれど」  これだからお嬢様は困る。そう思いながら、彼女と一緒に行くことを前提で話している自分に気付いた。 「逆に目立ってるって」 「困ったわねぇ、それなら、隣町までハイヤーで行きましょうか?」  笑えた。〝お次はハイヤーかよ?〟本気で言っているのがわかるから、おかしくてならない。純粋な笑いに、胸を震わせたのは久し振りだった。 「さっき言った大切な人達が住んでいる街なら、ここから歩いて行ける。その人達に、あいつには絶対に気付かれない裏道を教えられてるんだ。隙を見て、逃げて来いって言われていた。だけど、俺が逃げるところなんて、そこしかない。バレバレだよ、あの人達に迷惑を掛けるだけさ、行ける訳ない。そう思ってたけど、この町を出るってのなら話は変わる。そこへ行ったのさえバレなきゃいい。隣町まで車で送ってもらえるよう頼むことだって出来るしさ」 「まぁ!いいアイデアだわ」 「だけど、あんたがこの部屋に来たのはバレてるからな……」 「そんなことは心配しないで。誰と逃げたかを、あの方にも、きちんと理解して欲しいもの。どこへ逃げたかが知られなければ、いいのよ」 「時間稼ぎ?」 「そんなところね」  彼女は明るく笑った。それに釣られて、こちらも笑う。すると彼女が目を見開いた。 「あなた……本当に綺麗な子ね、うっとりしちゃう」 「はあぁ?」 「うふふ」  彼女はまたも悪戯っ子のように笑った。そのあとで真剣に言った。 「私のこと、世間知らずと思っているでしょうね?でもね、当座の生活費は、お父様からちゃんと頂いているわ」 「俺だって金はある。あいつに、カードを使えって、渡されて、通帳なんかは必要ないって取り上げられたけど、さっき言った街の人に、こっそり現金を預けてあるし……って、そんなことじゃなくて、あんた、お父様って言ったよな?父親とグルなのか?俺と逃げんのも承知してんのか?」 「元はお父様のお考えだもの、でも、あなたのことはご存じない。大切な人とお別れするのがつらくて、決められなかったけれど、新しい命には代えられないと思ったら、決心が付いたのよ。そのことも、お父様には、お話ししてないわ。でもね、逃げると決めたら、その命の為にも、あなたの気持ちが知りたくなったの。あの方を愛しているのかどうかをね。もし、愛していると言われたなら、そうね、別れて欲しいと頼んでいたかもしれないわね。ひどい頼みだとも思わずに、大切な人の為だけに……」  唖然とした。話していることの意味はさっぱりわからないのに、贅沢で安全な暮らしを捨てると決めた意志の強さには圧倒される。  それも苦労知らずだから、言えることだ。一緒に行こうと誘うのも同じこと、すぐに置いて行かれるに決まっている。また騙されるだけだ。そう心に言い聞かせても、彼女と行きたい思いが滲み出て来る。 「あんた、変だって」 「そう言われたのは二度目だわ」 「一度目はあんたの大切な人?」 「ええ、それで喧嘩しちゃったの。私のことを変だって言って、逃げることを決めた理由をわかってくれなかったの。最後は納得してくれたけれど、喧嘩しちゃったわ。好きに逃げればいいって言われちゃった。命に罪はないのにね?」 「あんたの話、訳、わかんねぇ」 「心配しないで、話してあげるから、だって、あなたとはたくさん時間が出来たもの」 「やっぱ、あんた、変だよ」  訳のわからない話でも、彼女と話すのは楽しかった。自然と笑みが零れて、熱い思いに心が満たされる。  幼い頃の夢が浮かんだ。もう一度だけ、夢を見たいと思った。間抜けな自分を嘲っても、勝手に足が動いていた。  気付いた時には、にっこり笑った彼女と、本当に何も持たずに、この部屋を出ていた。

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