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第三部 22ー1

 葵は肩に掛かる省吾の手を振り払いながら、翔汰を気遣わしげに眺めていた。 「大丈夫かよ?」  小柄で素直な性格そのままに可愛げがあり、教師のように説教好きで、こまっしゃくれていても嫌みがない。ひ弱という程ではないが、色白な肌に保護欲が掻き立てられる。そういった雰囲気の翔汰と、逞しい体付きで背が高く、異国風の端正な顔をした赤褐色の肌のメイとでは、誰の目にも、小猿を弄んでいる巨大な熊としか映らない。 「あの二人、何やってんだ?」  翔汰はメイを相手に、昔からの知り合いのように打ち解け合っている。それが葵には心配でならなかった。熊には軽い遊びのつもりでも、その一撃で小猿は吹っ飛ぶものだ。いかがわしさが漂うメイのその一撃を、葵は危ぶんでいた。  葵の目付きが少しずつきつくなっているのには、葵自身、気付いていない。翔汰もそこは同じで、葵に平然と微笑んでいる。葵の目付きに気付いたメイの反応の方が、余程まともと言えるだろう。  メイは自分の体で翔汰を隠そうとするかのように、翔汰の背中に腕を回していた。そうしたあとで、振り向きざまに目を細め、鋭い眼差しで葵を見る。葵は〝やる気か?〟と呟き、渡りに船と、同じような視線をメイに返した。獲物を取られまいと威嚇する獣のようなメイに、片方の口の端をくいっと押し上げ、掛かって来いとばかりに笑い掛ける。自然と互いに間合いをはかり、隙を窺うが、呑気な翔汰には一触即発の二人が全く見えていなかった。 「篠原君……」  あの調子で名前を呼ばれ、葵はまた説教かと鼻白んだ。翔汰の説教は案外と楽しいものだが、メイといい感じになった今は面倒でしかない。そう思ったが、ニコニコ顔の翔汰を見て、単に甘ったれな呼び掛けだったと知る。 「駅前にあるカフェのケーキ、凄く話題になっていてね、このあと、それを食べに行こうってメイ先輩に誘われたんだ。篠原君も一緒に行こうよ」  男二人でキャッキャと何を話しているのかと思ったが、ケーキのことだったとは驚きだ。葵は甘いものが嫌いではなかったが、話題というだけで、店に乗り込んでまで食べに行こうとは思わない。食堂で出された試作品のデザートにしても、翔汰に一番美味しそうなのを選んでやったのは、大して興味がなかったからだ。上級生に―――特に省吾には遠慮しまくりの翔汰に代わって取ってやったに過ぎなかった。 「リク先輩のお(うち)がやっているカフェなんだ。さっき連絡してくれてね、特別室が()いているから、どうぞって言われたんだって」  メイと二人きりにしない為だけに、食べに行くのも面白い。そう思って頷いたが、メイの浅ましさに少しも迷わされない翔汰には、葵の助けは必要なかった。というより、何も気付いていないのかもしれない。 「田中君も井上君も誘って、みんなで行こうよ」  翔汰は背中に回された腕を外そうと、数倍は強そうなメイの逞しい体を、ぐいぐいと押し遣っている。くすぐっているようにしか見えなかったが、メイが苦しそうに体をひねっているのを見て、本当にくすぐられていたのがわかる。翔汰はそれで出来た隙間から顔を覗かせ、葵に向かって話し掛けていたのだった。その体勢のまま、田中と井上を誘い、コウとリクにも誘いの声を掛けていた。  翔汰の人懐っこさは、野獣じみたメイにもお手上げだった。メイの悔しげな様子を気にする風もなく、翔汰は全員にイエスと言わせてしまっている。しかし、翔汰の唯一の弱点であり、同時に最大の欠点でもある省吾には、人懐っこさもうまく働かない。 「せ……せ……も、ど……ど……ど、すか?」  真っ赤な顔でもじもじと、やはり暗号のような喋りで誘っていた。葵は意に反して、むすっとするメイと、互いに理解し合った目で見詰め合ってしまった。それも一瞬のことだ。すぐに二人はふんと顔を背けていた。 「せ……せ……せ?」 「えっ?ああ……」  気のない省吾の返事が、葵には気になった。少し前に、〝俺に嫉妬させたいの?あとが怖いよ〟と、ふざけたことを囁いて喜んでいたが、今の省吾にはそれもない。何度振り払おうが、鬱陶しい程に肩へと回して来た手も、おざなりになっている。そっと振り落としてみると、その手が肩に戻って来ることはなかった。妙なもので、それはそれで気になって来る。  省吾の気持ちが視線の先にあるのは、明らかだった。省吾が校門へと目を向け、従兄弟のかわい子ちゃんを見ているのには気付いていた。隣りに立つ大男が誰かは知らないが、これといって特徴のない顔が不思議と胡散臭そうに見える。学校は違っても、省吾の仲間に違いない。そう思ったその時、怒鳴り声が響いた。 「俺は先に帰る!」  かわい子ちゃんのその声は、厳つい顔に合った凄みの利いたものだった。それ程に腹立たしいことがあったのだろう。かわい子ちゃんは怒鳴ったと同時に歩き去っていた。大男がその背中に話し掛けていたが、何を言ったかまではわからない。  葵は大男を顎の先で指し示し、省吾に尋ねた。 「あのでかい奴、あんたの知り合い?」  何かが気になった。葵の口調にも、それが表れていたようだ。心ここにあらずだった省吾が、反応を見せた。視線を僅かに下げて、その優美な顔を綻ばせつつも、目付きだけはひややかにして問い返している。 「あいつのこと、どうして聞くのかな?」 「臭うんだよ、あんたとおんなじ胡散臭そうな臭いがさ」 「そう?そういう意味でなら……まぁ、いいかな」 「はぁ?いいって何がだよ?」  葵の質問を無視するように、省吾はさっと足を前に出していた。そのまま校門に残っている大男へと歩いて行く。 「ホント、可愛げのない野郎だぜ」  そうは言っても、置き去りにされたような気分にもなっていた。放っておかれるのが嫌だというのではない。それに越したことはないと思うが、もやもやもしたものが胸に(わだかま)るのだった。 「ああっ、面白くねぇ」  葵は省吾に対してなのか自分に対してなのか、わからないままに呟いた。省吾が硬い面持ちで大男と話しているのには苛立った。急に振り向き、物柔らかな口調で声を荒らげた時には、むかっ腹が立った。 「何をしている、早く来い」  こうした芸当が出来るのは、省吾だけだろう。独りでさっさと歩いて行きながら、優雅な仕草で、早く来いと声を張り上げられるような男が、他にもいるとは思えない。 「クソがっ」  葵には省吾に()かされることの意味がわからなかった。こちらの問い掛けを無視して、大男へと歩いて行ったのは省吾の方だ。 「なめてんじゃねぇぞ」  葵はわざとゆっくり歩いてやることにした。それなのに、結局は省吾に従うことになる。省吾の声を聞くなり、コウとリクがバタバタと走り出し、田中と井上まで二人に合わせて走り出したからだ。メイもまた、翔汰を小脇に抱えるようにして走って行く。 「篠原君、急がないと置いてけぼりにされちゃうよぉ……」  葵の横をメイによって風を切る勢いで去り行く翔汰の声が、尻すぼまりに響いた。 「クソがっ」  葵はこんなことで負けん気を発揮する自分に呆れ返った。それでも翔汰にまで遅れを取るのは癪だと、走り出していた。 「こいつら、一体、なんなんだ?」  そう呟きながら、大男と話している省吾のもとに駆け付けることになってしまった。

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