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第三部 22-3
「葵、待てよ」
省吾が笑いながら声を掛けて来たことが、葵に火を付ける。機嫌のいい省吾は、クソ食らえということだ。葵は競歩さながらに、さらに足を速めて行った。
省吾の笑い声がはっきり聞こえるということは、省吾も葵に合わせて足早になっているということだ。葵は気になり、少しだけ振り返った。省吾の嫌みなくらいに優れた雅やかな体が、うるさく付きまとう蠅のように葵の背後にくっ付いている。さすがに大男のサキは、少し離れて、省吾の後方をゆるゆると歩いていた。
葵は省吾を引き離そうと、駆け出さんばかりに足を前に出した。黒塗りの高級セダンがすうっと横に近付いて来なければ、省吾と駆けっこしていたようにも思う。負ける気はしていないが、省吾に腕を掴まれ、試すことは出来なくなった。省吾は掴んだ腕を後ろへと引き、その背に葵を庇おうとしたようだが、無意識でしたことのようにも思えた。
「なんだよ」
葵は邪魔臭げに車を眺めた。光を反射し、眩しく煌めく高級車は、葵というより、省吾の足を止めさせるように停止する。
「これもあんたの知り合い?」
省吾に問い掛けるが、あれ程にしつこく付きまとっていた省吾が、その時だけは葵を無視した。省吾は葵の腕を離し、車から降りて来た運転手に意識を向けている。運転手は反対側に回り込み、省吾の為というように、後部座席のドアを開けていたのだった。
「お乗り頂けますか?」
運転手の丁寧な物言いに、省吾は問い返すかのように軽く首を傾げてみせる。するとサキが迷いのない態度で進み出て、省吾の後ろにすっくと立ち、葵には見せなかった凄みを利かせて、周囲を警戒し始めていた。
思った通りだと、葵がサキを胡散臭そうに眺めていると、コウとリクが戻って来た。メイでさえ翔汰から離れてこちらに来る。田中と井上は翔汰の側を離れないが、それでも剣のある目付きで、車を見ていた。省吾が自分の意志に沿わないことをするはずもないのに、彼らは気に掛けるように動いていた。
仲間に囲まれ、皆 が黙り込む中で、省吾の声だけが静かに響いた。
「何故?」
物柔らかな省吾の口調は、どこまでも優しい。運転手が優美な容姿に赤面し、僅かながら声を震わせて答えたのも無理のないことだ。省吾という男の嫌らしいまでの非情さが、運転手にわかるはずもない。それとも、わかっているのだろうか。赤面する運転手の口元が、微かな緩みに揺れていた。
「優希様のご要望でございます」
「そう……」
省吾は楽しげに頷き、スクールバッグを肩に掛け直してから、車に近付いた。ドアの上部に片腕を載せ、もう片方はルーフの縁に預けて、後部座席を覗き込むようにして言った。
「俺に何か用?」
「乗ってくれればいい」
陰に隠れて顔までは見えないが、後部座席からの声は葵にも聞こえた。変声期による掠れはあっても、その甲高い響きに、はっとする。
〝俺を苛立たせる〟
昨日、ホームで初めて会った時、省吾はそう言っていた。家庭の事情が何かはわからないが、それがもとで出来た兄弟の対立は、並大抵なものではなさそうだった。
「だから、その理由を聞いている。話によっては、乗ってやらないこともない」
省吾らしい物柔らかな口調で愉快そうに話しているが、その様子を見ると、葵や仲間に対してとは明らかに違っていた。からかうことも、苛立つことも、冷たく突き放すこともしていないが、この優しさには、相手に対して感情らしきものが何もないという無情さが見て取れる。車の奥に隠れて話す声には、それがわからないのだろう。大上段に構えるような言い方が、むしろ哀れに聞こえた。
「僕に恥をかかせるな」
「それが答えかい?それなら、これで終わりだな」
省吾が車から両腕を外し、ドアから離れようとした。透かさず車の奥から、縋り付くような必死さを思わせる甲高い声が響いた。
「お爺さまが……呼んでいる」
省吾が微かに興味を見せたのは確かだった。ほんの少し体を声のする方に傾けたのでわかるが、声の相手をする気ではなかったようだ。
「あの人が俺を?」
くっと笑って、体を戻し、ドアから離れて行く。そうしながら声に向かってやんわりと、教え諭すような口調で続けていた。
「あの人が呼んでいるにしても、おまえを使ったりしないさ。おまえは俺を手土産に、あの人に泣き付こうとでもいうのだろうが、あの人は泣き付くような者に、用はない。そういう人だよ」
「僕を馬鹿にしているのかっ、印を持って生まれたのは僕だぞっ、礼儀一つ見せられないのは、お爺さまが僕を跡継ぎに選んだことが、悔しくてならないからだろうっ」
「優希、おまえ……?」
そこで省吾が初めて声と向き合った。名前を口にしたこともだが、そう思えるくらいに、省吾の物柔らかな口調には驚きがあった。
「印が何かを知らないのか?蜂谷の跡継ぎの他には、何も聞かされていないのか?」
省吾は声を弾ませて高らかに笑った。その笑いにむっとしたのだろう。後部座席に身を潜ませて、声だけを響かせていた優希が、車の奥から身を乗り出した。
葵は知る必要がないと切り捨てた名前を、省吾が口にしたことで知ってしまった。食堂から出て行った時の小柄な後ろ姿以外、何も知らずにいたのが、どういった容貌であるかもわかってしまう。
優希は省吾と兄弟だとは思えない顔立ちをしていた。それなりに整っているが、省吾が強烈な印象で、全てにおいて絵になる容姿であるのと比較すれば、悲しいくらいに平凡というしかなかった。
よくよく見れば、個々のパーツは似ていると言えなくもない。可愛らしい顔立ちだとも感じたからだ。翔汰のように素直に自分らしくあれば、葵も惹かれていただろう。
「おまえは……っ」
兄と知りながらも、省吾を〝おまえ〟呼ばわりする優希は、自分を特別であると強く意識する余り、虚構の中を彷徨 っている。葵には、そう思えるのだった。
「……印のある僕が跡継ぎになるのが許せないんだ、それを認めたらどうだっ」
優希は口調を激しくして、省吾と張り合うように同じことを繰り返す。それさえ省吾には、面白みのない話でしかないようだった。
「あの人も、今頃はきっと、自分の間違いに気付き、慌てているだろうね。俺を呼ぶにしても、おまえを使わないというのは、それが理由さ。だけど、俺も甘いな、やられたよ。てっきり、あの人から聞かされていると思っていたんだけどね、おまえも利用されていただけとは、笑えるよ」
「なんの話をしているんだ?」
「あの人に聞けばいい。その勇気があればだが、あの人のことだ、問い質してみたら、少しはおまえのことを見直すかもしれないぞ」
優希がかっとしたのは、見なくてもわかる。さっと後ろに身を引き、運転手に車を出すよう冷たく命じていた。運転手は優希の命令が聞こえないかのように、ことさら丁寧に、省吾に立ち去る際の挨拶をしている。優希が苛立たしげに怒鳴ろうが、明白な嘲笑を真面目そうなその顔に浮かべ、聞こえないふりを続けていた。
省吾がさっさと行けと、頭を振って示さなければ、運転手は動かなかったかもしれない。省吾の指示に従うかのようにドアを閉め、座席に戻って車を出していた。
「いいのか、あれで?」
葵は走り去る車のリアガラスを眺めながら、胸に広がる物悲しさから、省吾に声を掛けていた。
「色々あっても、兄弟なんだろ?」
「いいんだ」
省吾の返事は簡潔だったが、さり気なく葵の肩に触れて歩き出したのには意味があった。仲間には、それがわかったようだった。
サキが省吾の後ろに付き、コウとリクがサキの横に並ぶ。メイは翔汰の手を取り、省吾と葵の前を行く。この町の生まれである翔汰には、兄弟の事情も察せられるのだろう。メイに手を引かれても逆らわなかった。田中と井上は翔汰をメイに任せ、二人の後ろに付いていた。
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