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第三部 22-4 (終)

 葵は肩に掛かる省吾の手の仄かな温もりと、微かな重みを意識した。振り払わなかったのは、続きを話そうとしている省吾の邪魔をしたくなかったからだが、その手を葵の首筋へと滑らせて、頭を自分の方へと傾かせるなり、髪に軽くキスさせることまで許した覚えはない。 「てっ……めぇ!」  葵は省吾の唇を引き剥がすように反対側へと頭を振った。 「うぅん、貸したままのキスを、少し返してもらっただけなのに?」 「うるせぇ」  翔汰を意識するかのような調子で、かわい子ぶる省吾は楽しそうだった。似合いもしないのに、そのままの雰囲気で話を続けて行く。 「優希とは他人みたいなもん、さっきのが初めての会話だよって言ったら、信じる?」  信じられないことだが、嘘を吐く理由が省吾にはない。葵が頷くと、省吾はふっと笑って、本来の省吾らしい物柔らかな口調に戻して話を繋げた。 「俺は蜂谷の跡継ぎに拘っていない。そんなものは優希の好きにしろと思っている。だけど、向こうが構うんだよね、食堂でのことも、俺が原因なんだ、おまえとの仲を気にしたのさ。去年もそんな感じで、同じことをした。その時は優希の思い通りにさせてやったけどね」  省吾が言うその時に起きたことで、翔汰が意地悪をされるようになったのだろう。葵は胸糞悪い話だと思いながらも、省吾の話に聞き入った。 「その子、新入生でね、香月の遠縁ということだった。あの頃、おまえのお爺さん、つまり香月の当主は何も言っていないのに、遠縁の誰かを養子にするという噂があってね、その子、自分がその養子で、香月の跡継ぎだと言いふらしていたんだ。それで俺に絡む権利があるとでもいうような態度だった。少しばかり綺麗な子だったし、鼻に掛けたりもしていたから、優希が腹を立てたのさ」 「そいつ、あんたに絡んだのか?いい度胸してんじゃん」 「それは……嫉妬かな?」 「んな訳、ねぇだろ?」  省吾は葵の言葉を少しも信じていないようだった。自分がしたいことしかしない男に絡んで行けた生徒がいたという事実に、イラっとしたのは確かだが、それを省吾に見抜かれるとは思わなかった。葵は断じて嫉妬ではないと、心の中で言い切ったものの、その生徒の末路を知りたくなる。 「それで、そいつ……どうなった?」 「俺や仲間は、今日と違って、あの日は食堂に行かなかった。イベントの噂を聞き付けた生徒は、みんな逃げたと言ってもいいだろうな。俺の場合は、優希が何をしようと、興味がなかったからだけどね。何があったかは、あとで知ったくらいさ」  真面目な生徒は、その気もないのに目撃したということだ。今日のように正義感を強くした翔汰が止めに入ったところで、何も出来はしない。省吾はそれを微かな苛立ちで葵に伝えていた。 「今日のことを思ったら、仕掛けた奴らが悪乗(わるの)りし過ぎたのもわかるだろう?だから、俺の祖父が動いた。理事長だからね。祖父に言われて、学園は騒ぎの全てをなかったことにしたよ。その子も県外の寄宿学校に転校したしね。優希の計画では、おまえもそうなるはずだったんだ。だけど、おまえのことは、優希の好きにはさせない、俺が許さない」 「……って言う割りには、あんた、ちっとも助けようとしねぇじゃねぇか?」 「助けて欲しかった?俺にはそんな風には見えなかったけど?」 「よく言うぜ」  省吾は胸を震わせながらも笑いを押し隠し、話を継ぐ。 「優希はおまえとは違う、何をするにも他の誰かに遣らせている。自分では何も出来ず、頼っているだけなのに、そのことに気付いていない。口で言ったところで、わかるはずないしね、気付かせる為にも、あれでいいんだよ」 「あんたさ……」  省吾の話に嘘はないが、〝気付かせる為〟というところに、省吾の思いは少しもない。それが葵には見えていた。 「……かかわるのが面倒なだけだろ?」 「ふふっ、バレた?」  省吾の物柔らかな口調が優しく響く。 その優しさが憎らしい。葵がきつく睨み付けると、省吾は肩に触れていた手で葵の頭を軽く(はた)き、構って欲しそうに肩を寄せて来た。葵はそれを押し遣り、口元を歪めて言った。 「クソがっ」  何をしても優雅で完璧な省吾が、何がおかしいのか、子供のように笑い崩れるのは、結構イケるものだと、葵は思った。  駅に近付くにつれて、人の往来も増して行くが、その殆どが学校帰りの生徒だった。あと少し時間が遅くなれば、年齢層も高くなり、今以上に人通りも激しくなるのだそうだ。この時間帯に限っては、目当てのカフェの店先には、制服姿の生徒達が順番待ちの行列を作る。そう説明する省吾の口調には、関心のなさが溢れていた。 「へぇ……」  学校はそれぞれ違っても、制服姿の彼らの視線が省吾に注がれている。今朝の女子高校生達の騒ぎを思ってもわかるが、学校帰りに『鳳盟学園』の駅まで足を延ばすのは、噂に名高い秀逸な男を(おが)められるかもしれないという期待からだろう。中には、憎々しげに見詰めている生徒もいたが、顔を眺めたいという気持ちに変わりはないようだった。  スマホのカメラで写真を撮ろうとする生徒がいたが、周りが駄目だとたしなめている。それがこの町のルールなのだと、守らないと爪弾きにされて大変なことになると、囁く声が漏れ聞こえて来る。 「まともじゃねぇ……」  葵は小さく呟いた。これでは息が詰まる。自分には到底我慢ならないことだと、省吾に同情すら感じていた。  省吾が下級生を身近に寄せたことはない。この町では有名な話であっても、葵には知りようのないことだ。視線は省吾だけに集まっているのではなかった。桁外れな美貌に恐れをなしていたとしても、葵への興味に周囲は騒然としていたのだった。  省吾には、そうした騒ぎも大したことではなかった。翔汰に声を掛け、手前へと呼び、もじもじする翔汰と向き合い、見せ付けるように手を取っている。メイは不服そうにしていたが、省吾には何も言わない。省吾は小柄な背丈に合わせるように体を少し屈め、物柔らかな口調をさらに優しくして話し掛けていた。 「君に誘われたけど、今日は寄り道をせずに帰らないとならないんだ、伯父との約束でね。誠司は先に帰ったし、俺も行かないと。また今度、誘ってくれるかい?」 「そ……そ、な、ぼ……ぼ、ぼ……か、か……ま、ん」  目の前に立たれているだけでも大事(おおごと)なのに、手を取られては、翔汰がまともに話せるはずがない。真っ赤になって口にした暗号は、葵には解読不可能に思えたが、省吾には理解出来たようだった。 「構わないと言ってくれて、嬉しいよ」  翔汰が気絶しなかったのが不思議なくらいだった。メイがさっと翔汰をすくい上げたからだが、それを葵は横目で眺め、翔汰に代わって嫌みったらしく、それでいてオヤジ臭い口調で答えていた。 「あんた、健気だねぇ……驚きだぜ」  省吾が片眉を吊り上げたが、それでも楽しそうに言い返している。 「俺を見ていれば、わかるだろう?」 「だな、胡散臭いってのがさ」 「そう?」  省吾が腹に一物(いちもつ)ありげにニヤリとしたと思う間もなく、葵の頬に手を伸ばして来た。人だかりの店の前で、躊躇いもなく堂々とされたことで、葵は逃げそびれてしまった。省吾の手が頬から耳を掠め、首の後ろに回される。そのままぐいっと引っ張られ、顔を近付けさせられた。 「や……やめろって」  葵は一瞬の抵抗を試みたが、どういう訳か、マキノの店でもそうだったが、体が意志とは逆の方向を求める。意志が体をそう動かしているようにも感じた。 「妙な真似をしたら、ぶっ飛ばすからな」 「出来るならね」 「クソがっ」  葵は省吾を倒す方法がないかを考えた。誘って油断したところを殴る。葵としては不本意だが、背に腹は変えられない。そうは思っても、何をどう誘えばいいのかがわからない。葵はクソ面白くもないと顔を歪ませたが、それを翔汰が気にするとは思わなかった。 「篠原君……」  この呼び方は、あれが始まる合図だ。省吾から引き離されたことで、翔汰は復活した。説教という得意技も息を吹き返す。 「……先輩にクソなんて言っちゃダメだよ。先輩は僕の誘いを断るのに、ちゃんと丁寧に理由を言ってくれたんだよ、本当に優しい先輩で、いつも僕を感動させてくれるんだ。だから、僕のことで先輩と喧嘩なんてしないでよ、僕、どっちの味方も出来ないし、困っちゃうもん」 「はあぁ?」  葵は一瞬、翔汰に言われたことが理解出来なかった。脳が受け入れるのを拒否したようだ。腑抜けた気分で顔を顰める葵の耳に、省吾の息遣いが笑うように響く。いつの間にか省吾は体を傾けて、葵の耳に口を寄せていたのだった。 「浮気するなよ」  省吾は笑いに揺れる声で囁いたと同時に、すっと体を起こし、葵から離れた。 「サキ、葵の世話を頼む」 「ああ、任せてくれ」 「おいっ、勝手に決めてんじゃねぇっ」  既に駅へと歩き出していた省吾の背中に声を張り上げることになったが、省吾は振り向きもせずに、軽く手を振って人込(ひとご)みの中に消えて行く。人目を引かずにはいられない省吾が、不意に人に紛れて目立たなくなるのが、葵には奇妙に思えた。 「あいつ……どうも様子が違う」  胡散臭さも、好き勝手するところも、何も変わっていないが、今朝までは思い悩むような繊細さを感じさせていた。のらりくらりと葵にまつわり付くのも変わりないが、気持ちの本気さに迷いがないのを匂わせている。それより何より、省吾の雰囲気が変わったことに、仲間の誰一人も気にしないことが、葵には気になっていた。

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