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第三部 23-1

 省吾は誠司が帰宅したことに気付いた。自室でノートパソコンの画面を眺めて考え込んでいたのだが、(わずら)わしいと思っても、気持ちの方はどうしようもなく誠司へと向かって行く。  意識的に感覚を広げれば、空気中の僅かな振動や匂いで周囲の状況を窺い知れるが、それで誠司の帰宅に気付いたというのではなかった。帰りを待ちわびていたのなら、そうしていたかもしれないが、必ず戻るとわかっている男を求めて、()れたりはしないものだ。それなら血に棲むものとの融合によって自ずと気付いたのかというと、それも違う。  理由は単純だった。廊下に敷かれた絨毯に、足音は消されてしまうが、話し声まで消すことは出来ない。誠司はこっそりと自室に入るつもりでいたのだろうが、オオノに見咎(みとが)められ、願いは叶わなかったということだ。階段を上りながらオオノに怒鳴り返す誠司の声が、省吾の部屋にまで響いていた。  省吾は二人の言い争う声に、血に棲むものが笑ったように感じたが、少しも不快ではなかった。自然な感覚として受け入れられる。感情に左右されるのも含めて、意志の全てが自らのものという確信が、省吾にはあった。 「葵はどう受け入れたのか……」  ひどい風邪で死に掛けたというが、その時に、臍の下辺りに〝印〟が現れたのは間違いない。葵はその〝印〟の意味を知らずに育ち、化け物を抱え込んでいることにも、悩まずに済んだ。省吾はそう思ったが、血に棲むものが胸の奥で囁くように否定する。 「聡か……」  幼馴染みという立場なら、事あるごとに、大したことではないと思わせるのは簡単だ。成長過程の一つとして、有り触れたことのように、葵に血に棲むものを受け入れさせたのだとわかって来る。 「それで葵をどうしたい?」 〝愚問だな〟  省吾は胸に浮かんだ声に頷いた。聡は多少なりとも知識を持っている。葵の意志が肉体と共に、魂に至るまで血に棲むものと融合したなら、どうなるのかを知っている。 「香月の娘を追い、時期を待ち、いい具合に聡を見付け、寄生したということか……」  はぐれ鬼ではあっても、聡に寄生したそれも他の者達同様に、千年もの長い時間を人として過ごしている。聡に寄生するそれは、人らしい感情を先走りさせていそうな気がした。それとも肉体的な欲求か―――主人に邪魔をされない田舎でなら、葵と好きに暮らせると思っていたのだろう。  藤野達大人は、あと数年は待つつもりでいたが、聡にその数年を与えることになるとは思わなかったようだ。事故がなければ、葵は完全に聡のものになっていたかもしれない。 〝眷属がなすこと、戯れと済ませられぬか?〟 「葵に関しては……かな」  胸が笑いに震え、血に棲むものが頷いたのを感じる。会話をしているような感覚でも、思いに境目は感じられない。意志は一つということだ。  誠司が無断で聡に会いに行ったことも、省吾の中では、苦々しさはあっても腹立たしさはなかった。血に棲むものに裏切りと捉えられても仕方ない行為だが、そうした思いも感じられない。可愛い従兄弟であり、親友でもある誠司の遣り切れなさを理解したいと思っていた。 「俺も同じだしね」  省吾はふっと軽く笑った。それは血に棲むものの笑いでもあった。肉体の現実感は、彼らを惑わす。意識を共有する魂から発露される感情もまたしかり。血に棲むものにしても、例外とはならなかった。  誠司が毛足の長い絨毯に足音を忍ばせ、こっそり部屋に入ろうと試みたのも、省吾と向き合うのを先延ばししようという思いからだろう。無理だとわかっていても、逃れられるのであれば、逃れたくなるものだ。  それをオオノに理解させようというのは難しい。意識を共有するそれか、あるいは人か、どちらの立場から言い訳しようが、省吾を置いて一人で勝手に行動したことは、オオノには許せることではない。  省吾を思って人であろうとする余り、人らしく感情的になったとは、誠司にも言える訳がない。共鳴していれば、人らしく怒鳴り合わないことくらい、誠司にもわかっている。オオノの前で、誠司の痛々しさが空回りするばかりだった。 「坊ちゃんを一人にして!おまえは何をしていた!」  オオノの怒声には迫力があった。普段が穏やかであるだけに、恐ろしさは何倍にも膨れ上がる。オオノは幼い頃に同じような境遇の藤野と出会い、二人で庇い合いながらここまで()し上がった。泥水を被って生きて来たオオノの本来の姿が、そこにはある。  誠司は人として見るのなら、省吾以上の坊ちゃん育ちだ。両親の愛に(はぐく)まれ、苦労知らずで生きて来た。オオノが声を荒らげた時の威圧さに勝てはしない。共鳴し合う彼らに上下はないが、人としての関係には無視の出来ない重たさがある。  省吾には、反抗期()っただ(なか)と思うような誠司の怒鳴り声が微笑ましい。羨ましいとさえ感じる。 「省吾にはもう子守なんていらねぇんだよ!わかってんだろが!」 「話をはぐらかすな!何をしていたのかを聞いている!」  誠司が黙った。厳つい顔を思いっ切り顰めて、オオノを睨み付けていることだろう。オオノが畳み掛けるように怒鳴ったことで、省吾にも見えて来る。 「言えないようなことか!」 「うるせぇんだよ!てめぇにとやかく言われたかねぇ!」  誠司の反撃は悲惨としか言いようがない。理屈も何もない。感情だけで怒鳴り散らしている。人らしくあり続けたことで起きた弊害なのかもしれないが、誠司はオオノを傷付けるとわかっていながら()めどなく叫び続けていた。 「てめぇは俺のオヤジじゃねぇぞ!ひっこんでろ!」 「なっ……!」  オオノの衝撃が(いく)ばくかは推し量れないが、このまま続けさせれば、どちらも言わなくていいことまで口にしそうなのはわかる。省吾はノートパソコンの画面を見続け、もう少し考えてみたかったのだが、諦めたように軽く息を()いた。 「葵に影響されたかな……」  そう呟き、椅子から立ち上がっていたのだった。

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