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第三部 23-2

 省吾がノートパソコンの画面で見ていたものは、聡についての資料だった。サキからあらまし聞いていたが、詳細を自宅に送るよう話しておいたのだ。誠司より先に帰宅するのはわかっていた。わざとそうなるようにしたからだが、着替えたあとは自室にこもり、誠司のことも忘れて資料に目を通していたのだった。 〝男のくせに、女みたいに可愛い顔〟  葵はあの醜悪なモニュメントを眺めながら、ベンチに座ってそう話していた。資料にある聡の写真を見ると、〝女みたい〟では到底言い表されていないのを知る。  慣れてしまえば、今更なのかもしれないが、聡の可愛さには省吾も衝撃を受けていた。それ程の可愛さなのだから、当然の反応だろう。しかし、それで終わりだった。葵の姿を目にした時には、瞬間的に欲しいと思ったが、並外れた可愛さを目にしても、そこまでの激しさはない。一夜の戯れなら考えたかもしれないが、その程度のことでしかなかった。  遊びは本能的な欲求の慰めになる。もらってくれと言うから頂くだけだ。優しさや思い遣りを必要としない慰めに、気持ちはない。縋り付かれることには、我慢がならない。そうした押し付けがましさを見せられるくらいなら、徹底した自己犠牲の方がまだ増しと思っている。蠱惑的な可愛さを自らの手で醜いものへと傷付けられたなら、興味も湧く。それさえ省吾には珍しいことだった。  葵を知るうちに、葵には他の者達と違う気持ちを抱いた。欲求を満たすだけでは物足らない。他はいらない。葵だけが欲しい。それなのに、葵は変なところで意志が強い。 〝俺がその気になんないと……〟  マキノの店の二階で、気持ちが動かされない限り、楽しめないと言い切られてしまっている。省吾には無駄な台詞だが、葵の全てが欲しいと思うのなら、葵から求めさせなければならない。  葵は理不尽なことには幾らでも強くなれるが、押しには弱い。可愛らしく泣き付かれたなら、言いなりになりそうな(もろ)さがある。あの小猿が〝篠原君〟と名前を呼ぶたびに、腹が立ってならないのも、そのせいだ。省吾が嫌悪することを、葵は()でるのだった。  省吾は血に棲むものと融合した時から、蜂谷の血に沈んだ千年余りの日々が、記憶となって脳裏に広がり行くのを感じている。蜂谷の血の記憶は非情さに溢れていたが、省吾には上質な映画を見るようで楽しいものだった。  その記憶の中から、今は聡であるそれが、過去に寄生した人の顔や名前を呼び起こす。最も近いところでは、児島俊作という名前と、目立つところが何もない顔が思い浮かんだ。  時代の変遷で世の中がどれ程変わろうとも、聡に寄生したそれと意識を共有する人の本質は同じものだ。その時々の香月を心底から追い求め、手に入れる為なら命も惜しまない。死したあとも、香月に後ろめたさを残し、人としての感情でその後の香月の人生を縛って行く。  聡は葵にも罪悪感をしっかりと植え付けているようだ。聡のことを話す時の葵の様子を思うと、省吾にはそれが見える。  『血の契り』が行われていた千年の月日は、血に棲むものからすると、人の肉体に(とら)われていたようなものだった。蜂谷の人生を体感するのではなく、血の奥深くから眺めていたに過ぎない。一世に一度の戯れ以外に自由がなかった。印を持つ者との融合を終えた今、ようやく自由を手にしたことになる。  その時を、聡に寄生するそれも待っていたのだと、省吾は血に棲むものと同時に思った。葵に何も知らせないまま、その生涯を閉じさせれば、葵の中のそれは、他の仲間と同様に、聡に寄生するそれと同類になる。意識の共有があれば人に寄生することは可能でも、もう一度別の肉体に入ることは不可能だった。葵を自分のものに出来なければ、省吾もそうなる定めにある。  聡に寄生するそれは、『血の契り』を終わらせたがっていた香月を―――葵の祖父の尚嗣を利用したのだろう。山間の村へと逃げ出した娘を追い、葵と省吾を、肉体を持つ陰と陽にさせないよう画策した。事故は想定外のことだった。  もしかすると、藤野達も人らしい心のどこかで、千年の昔に戻りたがっているのかもしれない。ふとそうした思いに捉われた。  省吾は血に棲むものと共に、千年のあいだに蜂谷の血が学ばせた非情さに(なら)い、口元に皮肉な笑みを浮かべた。肉体を得るのに、千年もの時間を費やしたことには、笑いが漏れる。人がここまで、屈辱と言えるような『血の契り』を守り続けるとは思わなかった。これも想定外のことになる。 「俺も同じか……」  人の感情に振り回され、欲望に魅入られ、迷わされている。 「あの二人も同じだな」  省吾は廊下で怒鳴り合うオオノと誠司に意識を戻し、小さく笑った。オオノは〝ひっこんでろ〟と誠司に言われ、言葉をなくしていたが、すぐに声を張り上げていた。 「この!馬鹿者が!」  オオノの怒号には、死者も目を覚ますことだろう。空気が激しく震え、自室のドアが揺れたように感じられる。省吾は焦り気味に部屋を横切り、ドアを開けて廊下に出た。 「いい加減にしろ」  物柔らかな口調で、気遣うように続けた。 「伯母さんが出掛けているといっても、そろそろ戻る頃だろう?聞かれたらどうする?」  先にはっとしたのは、オオノだった。オオノには真理は何事にも優先する。藤野と半身の関係でなければ耐えられそうにもないと思うことも、人が持つ慈しみ深い愛があれば乗り越えられるようだ。省吾には理解し難いが、葵を知り、禁欲的な愛の惨めさは理解している。 「お見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ございません」  その向こうに藤野がいるのは明らかだった。それを隠すかのように、オオノは伏し目がちに答え、自身の領域である階下へと戻って行った。オオノの背中を見遣る誠司の遣る瀬ない眼差しには、感情を爆発させたことへの後悔が浮かんでいた。 「話がある」  省吾が声を掛けると、誠司は顔を背けて頷いた。自室のドアへと足を向けたのは、着替えようとしたからだろう。 「そのままでいい」  省吾は誠司が落ち着こうとした僅かな時間も許さず、自室へと誘い込むように中へと戻った。誠司がむすっとした顔で入って来るのを、椅子に座って眺めた。 「それで……」  誠司が省吾の言葉を先読みし、喧嘩腰に言う。 「……主人らしく俺を罰するのか?」

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