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第三部 23-4 (終)
「クソ生意気なアレは……」
誠司が葵をアレと呼び続けるのは、半世紀も前の出来事だけが理由ではない。葵とは出会いからして最悪だった。つまらない顔と言われたのが、余程腹に据えかねたのだろう。誠司は名前を口にしなければ、直接的なかかわりを避けられると思っているようだった。
「……アレは知っているのか?田舎のあいつが……聡が俺達の仲間だと?」
「葵は何も知らないよ、この町に来て、色々と感じているようではあるけどね。俺のことを胡散臭いと言うし、おまえ達のことも同じに見ている。だけど、田舎では何も教えられていない。胡散臭いなんて、聡に限らず、誰にも感じたことなんてないさ」
「それで、あいつ、アレを追って、田舎から出て来たのか?」
誠司の苦々しさの奥にあるものは、葵への妬みだろう。省吾はわかり過ぎるくらいにわかる思いに、笑いを漏らした。
省吾に笑われ、むすっとする誠司の思いは理解している。その手の話が完全に遊びであれば、照れたりはしない。誠司は精神的に奥手であり、そこがサキとは大きく違っていた。誠司は厳つい顔を憎々しげに歪め、あの並外れた可愛さに苛立つように続けていた。
「バカな野郎だ、また、アレを誘うのに良さそうな奴に寄生しやがって……ったく、何度も何度も、無駄なことばかりしやがる」
「そこはおまえに似ている?」
省吾がからかうように言ったせいか、誠司が睨んで来た。幼い頃から慣れ親しんだ遣り取りが、省吾には楽しくてならないのだ。省吾の弾む思いが血に棲むものに溶け、境目のない感情に心が満たされる。省吾はニヤニヤしながら誠司のきつい眼差しに答えていた。
「俺じゃないよ、サキが言ったんだ、諦めの悪いはぐれ鬼に固執して、諦めを悪くした哀れな男だとね、そこは俺も否定しないけど……」
「あの野郎……」
誠司が歯軋りして悔しがるのが、省吾にはおかしかった。
「……俺がいないのをいいことに、くだらねぇことばっかり言いやがって」
「そうだ」
省吾はまだ足りないとサキの話を続けて行く。
「清らかな乙女のような心根がさせたことだとも言っていたな、そこは似ていない気がする、寄生するそれを思うと、聡が強 かなのは間違いないからね、手ごわい奴だし、おまえも迷わされないようにしろよ」
誠司の目が怒りに血走った。それを眺めて、省吾が大笑いをした途端、恥ずかしさが勝 ったのか、顔を真っ赤にする。
「クソったれがっ、うるせぇんだよ!」
誠司は自分でも呆れたのだろう。笑うようにして怒鳴った。
「どいつもこいつも、人生、舐め腐りやがって、たまには、マジに生きてみろってのっ」
省吾は誠司を相手に、腹の底から笑えるのが嬉しかった。何も変わっていないと、自分自身にもはっきりと確信が持てる。それは血に棲むものにも言えることだった。
「あははっ、おまえも誠司の人生を楽しめよ、あの可愛さはおまえ好みだろう?」
「ふん、おまえがメイだけじゃなく、俺まで煽ってることくらい、わかってるぞ」
「そう?さすがだね」
やはり気付いていたようだと、省吾は思った。誠司をからかうのは本当に楽しいことだが、それでも人としての立場から見ると、可愛い従兄弟の初恋を応援したい気持ちはある。
「諦めの悪い奴だけど、聡はまだ子供だしね、自分の力では、すぐにどうこう出来ないだろう?素直に田舎に戻ったのを考えたら、香月のマンションで何を話したのか、見当も付く。駆け落ち騒ぎなんて、嘘っぽい話さ、香月が仕組んだに決まっている、田舎での暮らしも知ってて当然だよ」
「中等部は無理でも、高等部になら入り込める……か?香月の爺さんを後見にすれば、この二学期からだって大丈夫そうだよな?」
「そういうこと」
省吾は誠司との会話を笑い、愉快な気分で話を繋げた。
「ついでに、おまえの慰めになればと思うから言うけど、伯父さん達大人は、まだ俺のことに気付いていないよ。おまえより先に帰って、オオノを驚かせてやったけど、おまえがいないことにかっとし過ぎたせいかな、みんなオオノと共鳴していたはずなのに、俺のことなんて、誰も気にしなかった、おまえのことばかりさ、俺を一人にするとは何事だってね」
「焼き餅か?笑わせんな」
「うーん、確かにちょっと悔しかったけど、それだけでオオノがおまえを怒鳴り付けた訳でもなくてさ、他にも理由があった」
「他にもって……何か問題が?」
「問題って程じゃない。ただ、伯父さんが遣り込められたみたいでね、あの人がこの日曜に俺を屋敷に寄越せと、わざわざ伯父さんの事務所まで出向いて、自分の口で、それをじかに伝えに来た。伯父さんは承諾するしかなかったってこと、帰って早々にオオノから聞かされたよ」
「あの人って……蜂谷の爺さんが?」
省吾が頷くと、誠司は怒鳴る前にそれを先に話せと、口の中でぶつくさ言っていた。
「それで、おまえは行くつもりなんだろ?それが気に入らなくて、オオノの奴、俺に八つ当たりしたってことだな。ったく、いつまでも子供扱いしやがって、そんなだから、オヤジもオオノも、おまえが変わったことに気付けないんだ」
誠司は妙に大人びた顔付きで自分自身に頷き、自信に満ちた口調で続けていた。
「おまえは爺さんにそっくりだし、オヤジのように遣り込められたりするかっての」
剛造に似ていると言われ、省吾は少しだけ唇を尖らせて不満を見せた。誠司はふんと鼻先で笑い飛ばし、開いたままのドアへと歩き出していた。
「着替えて来る」
廊下へと出る手前で立ち止まり、振り返らずに省吾に言う。
「……着替えたら、オオノに謝りに行くさ」
「恋は人を腑抜けにする……よね?」
「おまえが言うか?」
嫌みったらしく言い返す誠司に、省吾は笑いながら同じように遣り返した。
「おまえは藤野よりオオノに似ている。教育係と言っているけど、実際のところ、オオノは育ての親みたいなものだし、似たって仕方ないよ。堅物で通っているオオノだし、おまえの気持ちくらい、わかってくれるさ」
「まさかと思うが……」
誠司の口調が慎重になった。恐々 と言った方が正しいかもしれない。
「……サキから聞いてねぇよな?オヤジとオオノのように……とかなんとか?おまえがさっき言ったことだって、その……俺の人生を楽しめってのが……不埒な提案ってことじゃ……?」
その答えが笑い声であることが、誠司には屈辱だというのが、省吾にはわかっていた。
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