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第三部 24-4 (終)
サキは階段を数段残して、葵を見下ろすように立っていた。三つも年下の葵に答えるよう泰然と促され、驚きに目を見開いていたが、微笑んでもいる。葵にはそれも憎らしく思えた。
「答える気がないなら、付いて来るな」
葵は体の向きをするりと変えて、改札へと歩き出した。サキは残りの階段を何段かすっ飛ばして、その勢いのまま葵へと走り寄っていた。
「頼むから、そういう言い方はしないでくれるかな……」
息も乱さず答えるサキの楽しげな響きには、気持ちが表れている。サキは葵に夢中だった。
「……というか、省吾のことは、幾ら聞かれても、俺には何も答えられない」
「それって、ゲーセンの超絶イカした兄ちゃんにも言われたぞ。頼むから、何も聞かないでくれってな」
葵は上着のポケットからスマホを取り出し、パネルにかざして改札を通り抜けた。ふと思い立ち、駅構内を行き交う人の流れに浮かび上がる隙間を見付け、人の意識が及ばないその位置で足を止めた。
駅を出入りする誰もが、サキに目を向けている。わざわざ顔を上向かせて、巨大さを確かめる者さえいる。それなのに、葵の美貌には誰一人として目を向けようとしない。気付いていないというより、最初から見えていないようだった。
葵は振り向き、改めてサキを見た。何が起きているのか、サキにも理解出来たようだ。サキが眉根を寄せて葵を見詰めたその瞬間から、葵の存在が人の目にも映り始める。サキに対して見せていた驚き以上の驚きが周囲に溢れ出したが、そこには恐怖も匂い立っていた。かかわらないように視線を外し、そそくさと立ち去って行く。
人にどういった態度をされようが、葵は気にしない。葵の関心はそこにはなかった。サキを眺め、サキの反応に答えを探り出そうと思っていた。
葵は大男の名前が〝サキ〟と省吾から聞かされた時、省吾をからかうつもりでナギを話題にしたが、内心ではその名前の可愛らしさに笑っていた。ここまで大きく育つとは、身内の誰も思わなかったのだろう。
「ホント、似合わねぇ名前だよな」
「ロウが?」
「ちげぇよ、あんたのさ」
困惑げなサキに、葵はニヤリと口元を緩めた。
「サキなんて、ちっちゃくて可愛い女に似合いそうな名前だろ?あの兄ちゃん、ロウって奴は違うよな?あいつにはぴったりって気がする。イカしているけど、イカれてもいる。あの兄ちゃんには合ってるぜ」
サキは周囲で何が起きていたかを理解すると、葵の美貌を存分に眺められそうな間隔を残して立ち止まっていた。近付き過ぎず、それでいてすぐに対処出来る距離にいる。
「イカした兄ちゃんねぇ、イカれてるってのもだけど、ロウが聞いたら喜ぶだろうな……」
葵を見る目を優しくし、名前についても、喉の奥を笑いに震わせながら答えていた。
「……俺のは、母親が女の子だと信じてたからね、エコー検査で男だと医者に言われてたのに、女の勘に間違いはないと、腹にいるあいだからサキと呼んでいたって聞かされたよ。俺が生まれても、全然おかしくない名前だと言い張って、オヤジも根負けしたんだ。オヤジはガクとかダイとかゲンとか、男らしい名前を考えていたらしいけどね」
「腹の据 わった女には勝てねぇさ。俺の母親もそうだった……けど、そんな話をして、結局、俺の質問には答えない?」
「省吾に聞いてくれとしか言えないな」
葵は渋い顔でサキを見上げ、これといって特徴のない顔が愉快そうに綻ぶのを眺めた。負けを認めて、引くしかないのを感じた。捉えどころのない笑顔でも、それが魅力的に映るのでは問い詰められない。省吾のことは、省吾を相手に解決するより他ないようだ。
「それなら、あんたに用はない。さっさと帰れよ」
葵はサキに背を向け、駅構内から外に出て、尚嗣のマンション近くの横断歩道へと歩き出した。
「そういう訳にも行かなくてさ、省吾から世話を頼まれただろ?」
「はあぁ?」
葵は半信半疑に問い掛けた。
「あいつ、マジで言ったのか?冗談じゃなく?」
「すこぶる」
「俺は自分の面倒くらい自分で見られっぞ」
「だろうな、だけど、省吾に言われたからさ。君がちゃんと無事にマンションに入ったのを、見届けないとね」
「あんの……っ」
葵はカフェの店先での省吾を思って悪態を吐 いた。
「……クソ野郎がっ」
ここに省吾はいないが、サキがいる。それなら代わりにどうしてやろうかと思いながら、道を挟んだ向こうに建つマンションを見遣った。広い通りから表門 、田舎の森を思わせる前庭 、車一台が通り抜けられる広さの敷石からエントランスまでの距離を、感覚を広げて目測する。
「ならさ、そこで黙って見てろ」
言うが早いか、葵は信号が赤なのを無視して走り出し、走行する車を見事にかわして向こう側の歩道へと辿り着く。クラクションを鳴らすような車は一台もなかった。どの車もスピードを落とさず、葵が見えていないように平然と走っている。
葵は道路の向こう側に立つサキに向かって、中指を突き立ててやった。意気揚々とマンションの表門を抜けて前庭へと歩いて行く。ところが静謐とした空間の中程で、有り得ないことだが、サキの高らかな笑い声が聞こえた気がして、何故だか悔しくてたまらない気持ちになっていた。
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