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第三部 25-1

 省吾は懐かしいはずの古めかしい門構えに、物珍しさしか感じない自分に笑った。  蜂谷の家を出された時は裏口からだったが、あの日を最後に、この屋敷に来たことはない。前を通り過ぎることさえなかった。藤野に引き取られた当時は、離れた地区に住んでいたせいもあるが、屋敷町に引っ越してからも同じようなものだった。蜂谷家にとって省吾は赤の他人、呼ばれてもいないのに歩き回れば、不審者と思われる。こうして町の奥深くまで、ゆったりと歩いたのは、省吾には初めてのことだった。  屋敷町には、歴史的建造物が数多く残っている。一区画が丸々敷地となっている蜂谷の屋敷もだが、道路を一つ奥に入れば、無人となった香月の荘厳な屋敷もある。町全体が時代がかっているが、今現在も、全てが個人の住居として使用されている。その為、歴史を感じさせる建物には入れないが、古い町並みとしては注目されていた。外観だけでも楽しもうと、休日には観光客らしい姿も見られるようになった。蜂谷の屋敷に向かう省吾の思いも、彼らと大して変わりなかった。  香月の屋敷は、平城(ひらじろ)であった頃の趣を残している。かつては二重の(ほり)に囲まれた雄大な天守と本丸御殿があり、そこを中心に、臣下の(くらい)に合わせた屋敷が広がっていた。君寵をこうむり、腹心と言われた蜂谷の屋敷が広大で、城のすぐ近くというのは当然の成り行きだった。  見る者に感銘を与え、豊かさの表れでもあった華々しい天守は、先の大戦で焼失している。軍事施設がそこかしこにあったというのに、天守焼失がこの町の唯一の被害だった。燃え盛る天守を前にしても、奇跡的に本丸御殿への類焼を免れている。天守は失ったが、それ以外は全くの無傷だった。  香月の権威の象徴でもあった天守が、自ら犠牲となり、この町の人々を守ったという噂が流れた。燃え落ちる天守に、人々は涙したと記録されていた。  省吾にすれば―――というより、血に棲むものにすれば笑止千万な話だが、あながち間違ってはいない。多方面に見る戦火の激しさを鑑みて、最も目立つもので、この町に張られた結界を目立たせなくしたのだった。  時代は移り、堀は埋められ、道路に変わった。列車が引かれ、駅が作られ、余所者が集まった。それでも香月の威光は輝きを失わず、輝きに近い位置にいる程、位は上というのも変わらなかった。屋敷町に暮らす者達にとって、駅に近い程、位は下ということになる。  省吾が暮らす藤野の洋館は、蜂谷家の別宅だったこともあり、こぢんまりとしている。場所も駅に近く、最下位の位置に建っている。それが現代においては都合がいい。駅前にマンションが建ち並び始めたのも頷けることだった。  位が上の者達には、そうした利便性もさして意味を持たない。千年ものあいだ、その時々の流行(はやり)で建て替えられようが、変わらずに佇む厳めしい正門、それが全てを物語っている。この町の序列は、固く息衝いているのだ。  本当のところでは、香月の娘が出奔したことで、この町を守る力も弱まっている。省吾の存在だけでは隙間が出来る。香月側の血に棲むものを失ったことで、結界にも亀裂が出来始めていたのだ。人に寄生する仲間達が、〝はぐれ鬼〟と呼んで馬鹿にすることとは意味が違う。この町が他県からの移住者に乗っ取られるのも、そう遠くなかったということだ。 「俺は構わなかったけどね……」  人との約束は終焉した。この町への未練もない。数年後、山間の村を訪れ、葵を攫ってどこへなりとも行けたはず、そういった未来もあった。その方が気も楽だったと思いながら、省吾は威厳に満ちた武家屋敷の正門を、伸びやかな歩調で通り抜けた。省吾が訪れる時間を藤野が伝えていたようだ。省吾を迎えるように門が開かれていた。  藤野は出掛けに車を出すと言った。洋館から遠く離れた場所とはいえ、同じ屋敷町に住んでいる。歩いても三十分足らずの距離だ。それさえ藤野が気にしたのは、剛造を甘く見ていたことへの反省なのかもしれない。省吾が今もなお、剛造を慕っていると信じているからだろう。 「俺はもう三歳じゃないのにな」  むしろ藤野の方が省吾以上に慕っているのではないかと、省吾は思っている。親に捨てられたも同然の少年を導き、成功させたのは剛造だ。裏では冷酷非情と言われる男が、手本としたのも剛造だった。藤野が求めた父親像を、剛造は持っている。 「あの人も承知のことさ」  省吾は前庭の苔むした石畳を歩きながら、剛造が何かに付けて藤野を呼んでいたのも、それが理由だろうと思う。使える男というだけではない。息子である父親にはそれが見えていたようだ。別の見方をすれば、省吾と優希の対立に似たものがあるのだろう。寄生するそれも、冷酷非情と言われる男と意識を共有した時からずっと、人としての藤野に入れ込み過ぎている。 「正行伯父だけじゃないけどね……」  省吾はふっと小さく笑って、正門同様に大きく開かれた玄関に立った。既に蜂谷家の家令が頭を垂れて待っていた。 「お帰りなさいませ」  五代前から家令と呼び名は変わったが、男の一族は代々蜂谷家の用人として仕えている。夜伽目付という役目も、その一族が担っていた。蜂谷家の内情を知り尽くす一族には、剛造が全てだということだ。省吾の父親が次期当主と言われていようが、彼らには関係ない。彼らが認めなくては仕えてはもらえない。その男の言葉が、蜂谷家の次期当主を示すことになる。  省吾は帰って来た訳ではないと答える代わりに、家令の男に軽く頷いた。その気はないとしても、剛造と話すまでは合わせた方がいい。この男はオオノとは違う。相手にすれば、省吾を価値のない者と見る。  省吾は靴を脱ぎ、記憶に残る廊下を静かに進み、忘れられない書斎を目指した。春の景色に彩られた回遊式(かいゆうしき)庭園を横目に、三歳の子供には永遠に続くと思えた廊下を、静かに歩いて行った。

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