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第三部 25-2
書斎は蜂谷家の五代前の当主が書院に代わるものとして建てた別棟の一階にあった。廊下を挟んで、町の名士の集まりにと作られた広間もある。剛造が蜂谷家の事業を息子に任せてからは、人の出入りがなくなり、格式高く重厚で洒落た作りの広間も精彩を欠いている。
二階には嫡子の為にと作られた贅沢な子供部屋があった。ベッドにクローゼットなど、現代では価値の高いアンティークになり得るその部屋もまた、省吾を最後に誰にも使われず、侘 しさが漂っている。
「優希の部屋にすると思ったのにな……」
二階の子供部屋は、省吾が蜂谷家を出されたあの日で時間が止まっている。父親であるあの男は、剛造の手のうちの子供部屋から優希を遠ざけることで、剛造を牽制した。あの男には優希一人が息子だ。その息子の誕生を機に、生活を変えると言って、広い敷地の一角に自宅を増築し、近代的な設備の中、親子三人で暮らしている。
剛造は歴代の蜂谷家当主の寝所で休む以外は、外出する用件がない限り、もっぱら書斎にこもっている。家令の男の一族にかしずかれ、何一つ不自由のない暮らしをしていると聞く。剛造にとっての家族とは、忠義を尽くして仕える彼らを指しているのかもしれない。
省吾にしても、藤野の家に預けられなければ、剛造のように暮らしていただろう。人としての意志を持たない化け物に変わっていようが、省吾の外見に惑わされ、誰にも気付けない。血に棲むものがそれはそれで面白いと囁くが、省吾自身の意志は面白くないと囁き返す。どちらの思いも、苦笑と共に一つに溶け合う。
「あの人は……」
省吾はふと思い付いたことを、軽く頭を振って打ち消した。梟雄と呼ばれる蜂谷の当主が、孫の行く末を思って、母方の伯父に預けることは有り得ない。
「葵のお人よしに煽られたかな」
省吾はくっと短く笑って、三歳を最後に踏み入れたことのない洋風建築の二階屋を見上げた。その別棟は、庭園に沿って続く廊下が途切れた先にある。渡り廊下で繋がれた入り口も、省吾を迎えるように開かれていた。
〝お爺さま、おはようございます〟
毎朝、そう剛造に挨拶をしていたのが思い出された。瞬間的に三歳に戻ったように感じ、省吾は剛造への複雑な思いを認めるしかない自分に、僅かに苛立った。建物に入った途端、そこに立ち込める匂いに胸が熱くなる。しかし、三歳児の幻影はその匂いによって消されもする。
女人禁制でもないのに、ここには男の匂いしかなかった。男達が寄り集まり、仕事を楽しみ、遊びに興じた場所だ。古き良き時代の話で、現代では考えられない。三歳児にも無理なことだろう。成長した今だから気付ける匂いだ。
父親であるあの男がこの場所を避け、自らが作り上げたガラスの居城に入り浸るのも当然なのかもしれない。鬼と呼ばれたものの本当の力を知らないでいる者には、この匂いを押さえ込めない。
血に棲むものの力を身に受けたことがあれば、鮮烈で狂気じみた欲求にも、自分を保つことが出来る。裏切りがあってはならないが、恥辱への報復として、その死を求めたりしない。囲いはしても、支配はしない。愛欲に溺れさせはしても、隷属させたりはしない。それがあの男には出来ないのだ。
この場所に人を集めたりすれば、見劣りがして、恥をかくことになる。血に棲むものと融合したことで、省吾にもわかって来る。
「あの男とは違う、俺は葵を……」
目の前に書斎のドアがあった。省吾はドアを見詰め、どうしたいかを口にせずに済んだことにほっとした。
書斎に辿り着くまでと違い、ドアは省吾の足を止めさせるように閉じられていた。ドアの向こうから、逃げ帰っても構わないという剛造の声が聞こえて来そうだった。玄関で家令の男に挨拶をされたのを除けば、ここに着くまでのあいだ、誰とも顔を合わせていない。それも剛造の指示なのだろう。
家令の男の〝お帰りなさいませ〟という言葉をきちんと呑み込んでから、ドアを開けろという訳だ。男の一族は、三歳まで世話をした省吾の帰還を待ち望んでいた。ここに来て、剛造は彼らの望みを受け入れたことになる。
〝印〟に拘り過ぎて本質を見失っていようが、蜂谷家の当主としての剛造は、忠義を尽くすに値する主人だった。息子にはその価値がない。あの男は剛造から受け継ぐものを否定し、新しい勢力に傾倒している。彼らに見捨てられる意味を、考えたことはないのだろう。
藤野達が守るのは血に棲むものだが、彼らが守るのは蜂谷家だ。仕える者としての誇りを傷付けるような主人を、彼らは認めない。それもあの男から見ると、話が変わる。あの男は彼らの慇懃さを嫌った。家族と暮らす住居の使用人を新しく雇い入れ、彼らには入り込ませない。気持ちの上では、彼らは既にお払い箱ということだ。
彼らは藤野達とは違う。長い年月、人の世で命を繋ぎ、土地に根ざして、この町の繁栄と共に生きて来た。蜂谷家を陰から支え続けた彼らの忠義さえ、あの男は役に立たないものと切り捨てた。
全ては剛造の目が息子に向けられたことがないからだった。〝印〟があるというだけで跡継ぎに選ばれた孫にも、向けられたことはない。剛造がその目に映す者は、ただ一人。それでは息子の立場はないだろう。剛造が大切にするものを壊したくもなる。
「俺も藤野も、優希にしても、迷惑な話さ」
省吾はそう呟きながら書斎のドアをノックした。
「入りなさい」
二年ぶりに聞く剛造の嗄 れた声が、優希の『鳳盟学園』入学祝いのパーティーと一緒に、ドアの向こうから妙な懐かしさでもって響いて来た。
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