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第三部 25-3
二年前の春、省吾のもとに優希の入学を祝うパーティーへの招待状が届いた。客という扱いでわかる。省吾は家族ではないということだ。立場を弁 えさせようという狙いが透けて見えた。藤野は自分一人で出向くと言ったが、省吾は敢えて招待を受けた。剛造の顔を間近で見てみたかったからだが、それもあって、藤野達は省吾が未だに剛造を慕っていると思っている。
省吾にも自分の気持ちがはっきりしていなかった。三歳を最後に、剛造に近付くことは許されなかった。寂しさが根底にあったかどうかはわからないが、顔を見たい思いがあったのは否定しない。それがまさか、その会場で自分自身が好奇の目にさらされるとは思わなかった。
あの日、あの会場で省吾に淫らな視線を向けた彼らに、何が出来るというのだろう。それでも、あの時の省吾はまだ子供に近い。欲望を露わにした眼差しを馬鹿にしながらも、そこに立ち、好きに眺めさせていた。そうした中で剛造の視線が誰に向けられているのかに気付き、そちらに目を遣った。
省吾は剛造の視線の先にいる相手を見て、何かが理解出来た気がした。会場にいることの意味がなくなり、そのあとすぐに立ち去った。あの時の剛造は、多分、葵を見る今の自分に通じるものがあるのだろう。漠然としていた何かも、今ならわかる。省吾は口元に浮かんだ笑みを消しつつ、ドアを開けて書斎へと足を踏み入れた。
机に書棚、チェストにソファベンチ、絨毯でさえ三歳の記憶のままに、褪 せることのない落ち着きを見せている。唯一、部屋の広さに違和感があった。幼い目線では、見上げるしかなかった剛造の大きさを恐れたように、部屋も広々として威圧的だったように思う。今の省吾は僅かとはいえ剛造の背丈を超えている。その目で眺めるこの部屋は、男が求める隠れ家のように映っていた。
「座りなさい」
立ったままの省吾に、剛造が声を掛けた。省吾が何を思っていようが気にしないその言い方は、両腕に絵本を抱えて立っていた三歳の省吾に掛けた口調と少しも変わらない。十五年の月日を一瞬でないものにしてしまうとは、恐れ入る。恨み辛みを言う気は毛頭ないが、人として見るのなら、まだまだ剛造には敵わないように思えた。
「このベンチ、昔は足が届かなかった」
省吾はソファベンチに持て余す程に成長した体を優雅に下ろし、長い足をゆったりと組んだ。すらりと伸びた背中が、年老いた剛造には眩しいものだ。だとしても、剛造が成長した孫への親愛を見せることはない。
「昔話をしようというのか?」
剛造が嘲りを含んだ声音で、省吾の気持ちを擽 るように問い掛けて来た。省吾は言葉にはせずに、軽く首を横に振って断りを伝える。剛造は機嫌よく笑い、頷いた。省吾が三歳までの記憶を忘れていないことを理解した上で、省吾を試し、楽しんだのだ。食えない爺 さまだと思いながら、今度は声に出して答えていた。
「このあと、予定があります。あなたに割 ける時間はそれ程ないんですよ、話を聞かせて下さい」
「おまえもそれらしい戦術が出来る年になったのだな?」
嗄れた声音に浮かぶ苦々しさには、昔話をしたがったのは剛造の方という雰囲気がある。それを確かめようとしたのなら、剛造に笑い飛ばされる。省吾はその優美な顔を微かに綻ばせ、剛造が本題に入るのを待った。
剛造は満足げに微笑んだ。省吾によく似た笑いだった。互いに騙し合いは無駄と理解するしかない。省吾はそう思い、苦笑に変えた。剛造もそうすることにしたようだった。抽斗 を開けてファイルを取り出し、机の上にそれを広げ、書類の束を省吾に見せる。
「私の個人資産をおまえに譲るという書類だ、細かい明細はあとで読め、まずはサインしろ」
「何を?……馬鹿なっ」
さすがに驚いた。それ以上に、あの男のことを思った。不服を申し立てるに決まっている。無駄な争いに巻き込まれるのはご免だ。あの男とどういった形であれ、かかわりたくはない。省吾は剛造に振り回されまいと気持ちを静め、問い直した。
「あなたは何を考えているのです?」
「わからないのか?」
答えを聞かないままに問い返されるのは、省吾の性分には合わない。眉を顰めたことで、剛造の気分を良くしたのはわかるが、構うものか。省吾は剛造に腹立たしさをはっきりと見せ付けた。
「おまえの気持ちはわかるぞ、だが、心配するな、弘人にもきちんと残してある。おまえに譲るものと比べれば大した金額ではないが、あれには妥当なものだ。動産、不動産、この屋敷も含めて、サインをしたらすぐに、おまえ名義に変える。税金がどうのと、小煩いことを言われたが、気にするな。藤野に用意させろ。そうだ、私はおまえの扶養になるからな、ちゃんと面倒を見るのだぞ」
剛造は年齢にあった渋さで、穏やかに笑った。省吾が受け継ぐ優美さを思わせる剛造の年相応の笑顔が、悔しいくらいに魅力的だった。省吾に復讐されるとは少しも思っていない。無一文で追い払うことも出来るというのに、疑うことすらしていないようだった。省吾は笑うに笑えない思いで剛造に答えた。
「それで事が済むとでも?」
剛造は省吾の返答を待っていたかのように、別のファイルを取り出した。これもあとで読めと、剛造は楽しげに続けている。
「これはコピーだがな、原本は既に捜査機関に渡してある」
「あなたは……」
省吾は戦う前から負けた気がして、答えに窮 した。それでもどうにか思い付いた言葉を剛造に返した。
「……本当に、愉快な方だ」
それは皮肉ではなく、省吾の本心だった。剛造にも伝わったのだろう。矍鑠とした老人そのままの勢いで、元気よくからからと笑った。
「私は息子を鍛え直さなくてはならない。孫はいい、おまえがいるからな」
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